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礼拝説教要約(2013年6月2日)
聖書・使徒言行録17:22〜34 
「何を信じているの?」
 パウロの時代、アテネ人は、今の日本人と神観念が似ていますね。パウロは「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。」(:22)と言っています。
 日本もそうですね。多くの人が仏教徒であると共に、神道の氏子であります。その他にも、山や川、池や田畑の神々がいます。樹木や奇岩も神となり、死んだ人はもちろん蛇や狐、動植物なんでも、目に見えない霊的存在を神として祭り拝みます。
 今、祈祷会では申命記を学んでいますが、先週の12章には「あなたたちの追い払おうとしている国々の民が高い山や丘の上、茂った木の下で神々に仕えてきた場所、…石柱…アシェラ像…神々の彫像を消し去りなさい。」とあります。農耕文明時代、目に見えない自然の脅威を感じ、それらを神として祭ったのは、どの国でも同じだったようです。天地を造られた真の神が、人間の魂に「永遠(神)を思う心を人に与えられた。」(コヘレト3:11)から、人は神を求めるのです。しかし、あまりにも大きすぎる神を人間は把握できません。だから、自分に都合の良い神々を、かってに作るのです。
 しかしパウロは「わたしたちは神の子孫(神の霊を魂に注がれた唯一の被造物)なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」(:29)とはっきり言っています。
 そしてパウロは、神とは「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みはりません」(:24)と言います。
 ソロモン王が神殿を造った時も「天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。…昼も夜もこの神殿に、この所に御目を注いで下さい。ここはあなたが『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けて下さい。」(列王上8:27、29)とあります。@ 神は神殿・神社などには住まないし、A 人の手によって仕えてもらう必要などないのです。神輿でしか動けないようなものは偶像です。「何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。」(:25)
 かえって「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお定めになりました。」(:25~26)とあるように、神の造ったものの中に、人間も、そしてその群れである民族も有るのです。春夏秋冬=自然もすべて神の被造物です。
 神を退け、自己中心・人間万能主義的に生きるようになった罪人・人間は、共に住めず、民族として成長する過程で争い、土地を獲得して国境を設けます。しかしこれも神の許しの中にあると聖書は言うのです。だから、神は歴史の主でもあるのです。
 このように大きすぎる、人間の頭脳の理解を超えた神を、どうして人は知ることができるのでしょう。神は、神御自身が、人間に御自身を示してくださって、初めてわかるのです。その神の1つの面を啓示くださったのがイエス様です。イエス様は、神がどんなに人を愛しておられるかを、その生ざま死ざまを通して示してくださいました。
 聖書の福音は、「イエス様があなたに代わって、罪の裁きを十字架の上に受け、死んで葬られ、イエス様のお言葉の真実の保障として復活された」と言います。「神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」(:31) あなたはこのことを受け入れますでしょうか? パウロの時代の人々も「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」(:32) でもこのことこそ、最も大事なことなのです。このことを抜きにしてキリスト教は存在しません。
 30節に「神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいました。が、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」と有ります。ということは、誰でも救われる可能性が有ると言うことです。だが、1つだけ条件が有ります。何でしょう? 善行を積むことでしょうか。そうではありません。自分は救いを必要とする罪びとであることを認め、悔い改めることです。あなたはこれを信じますか!
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