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礼拝説教要約(2013年6月9日)
聖書・フィリピ書2:12〜18 
「わたしと一緒に」
 13節の御言葉は、口語訳聖書では「あなたがたの内に働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」となっています。そしてこれは、私の献身の時に与えられ、確信を得た聖句です。聖書の言葉は人の置かれた状況等において、響き方が異なる場合があります。この聖句も、その前に「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」(:12)とありますから、本来は「その願い」とは、救われる願いであります。でも私には、「学校教育をすることではなく、心にキリストの福音を伝えることが、自分の生涯の働きではないか」との思いは、自分の願いであると思っていたのです。だから神様の召命がない私は、献身を躊躇し3年も延ばしてしまいました。そのような私にこの聖句が「その願いを起こさせてくださったのは神様ですよ!」と響き、献身の確信を得ることが出来たのでした。
 救われたいとの願いを起こさせるのは神ですから、神を求める心を目覚めさせるのも神であります。救いの時に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)の御言葉を与えられる人は多くいます。神様が先立って、見出してくださった。だからそのような思いにならせていただいた。真に感謝なことです。救いはわたしが得るのではなく、神が与えてくださるものなのです。
 「救いは神のものです」
 「救いの達成に」とありましたが、達成とは完全な成就ということです。「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き」(:15)とある完全さです。だから中途半端で止めてはならないのです。でも、世にある間に、自分は完全と思うこともないでしょう。でも完全は約束されていることですから、私たちは希望を持って歩み続けられるのです。洗礼はゴールではありません。だから洗礼を受けて天国に入ったと安心しきってはなりません。また、洗礼を受けたのに、なかなか変化がないと焦り、失望してはなりません。神との交わりに入ったばかりなのですから、今から、イエス様が私たちを愛した愛を体験して行くのです。
 今、陸上競技日本選手権をやっていますよね。アスリート達が記録を出すためには努力、節制が必要です。「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなた方も賞を得るように走りなさい。競技をするものは皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るためにそうするのです。」(Tコリント9:24~25) 私たちの競争は、他者との競い合いでは有りません。神の願うオンリーワンになるのですから。最後まで走りきる者は誰でも、勝者として朽ちない冠を受けられるのです。このようなゴールが保障されているのですから、苦しみを楽しむことができるのです。
 マラソンをしている人たちの表情は苦しそうです。私は日曜ごとにお借りしている自動車をお返しして、帰りはゆっくりとランニングして帰ってきます。1kmもないのに苦しいです。好きでないから苦しいです。でも、妻に「こんな暑い日に良く行く!」と言われながら、真夏でも水曜日には3時間ほどテニスに行きます。汗だくで、足はフラフラ、息切れして苦しいです。でも楽しいです。好きだから。
 信仰の道には苦しみや試練があります。でもイエス様が好きだから、苦しい時ほどイエス様が一緒いてくださるから嬉しいのです。イエス様と一緒に居れば居るほど、イエス様に似た者に変えられて行くから嬉しいのです。
 「救いは神のものだけど、あなたの決心が必要です」
 救いは神のものだけど、それを与えてくださるイエス様を受け入れ、共に歩もうと、人間の側が・あなたが決心する必要があります。そして、ただこの救いを持っているというのではなく、与えてくださったイエス様に更に近く寄り添ってゆきたいです。戴いただけで、イエス様から離れてしまうと、いつしかこの恵みさえも失ってしまうのです。失うのは人間の側の責任です。
 しっかり保ってゆきたい。「命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」(:16) この祝福は自分のためでしょうか。そうです。しかし、この世の祝福ではありません。キリストの日に誇れる祝福です。天で、神に「良くやった。がんばったね。」と褒められることが、私の誇りです
 パウロはこの誇りのためなら「あなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。」(:17)とまで言います。あなたが救われるために、わたしが殉教の死を遂げねばならないとしても、喜ぶと言うのです。それこそがイエス様がわたし達に示してくださった愛だから。そのようにパウロは喜びつつ命をささげてくださいました。そこにイエス様と一緒に歩いているパウロを見ます。わたしもそのパウロのようにイエス様と一緒に歩けるものになりたい。
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