礼拝説教要約(2013年6月30日)
聖書・Tテモテ2:1〜7
聖書・Tテモテ2:1〜7
「第 一 の 勧 め 」
昨日、神奈川教区総会がありました。伝道師となる2名の准允式が行われ感謝でした。しかし、その他は、憂うべき状況、結果であったと私には感じられました。
各部、各委員会の報告は、一応承認された形にはなりました。しかし、それは、会計に関して疑義があり、会計報告は更に精査すべきということで、切り離して可決したのでありました。
未受洗者も聖餐にあずかることを善しとし、教団の職制委員から止めるよう勧告を受けても、執行し続けている教職に、教団から免職が言い渡されました。その教師の免職撤回を求める件が可決されました。
私はこれに関しては、反対で、発言を求めましたが、発言させてもらえませんでした。教団から問案吏として出席しておられた書記さんが、洗礼から聖餐へ、この順序は守られねばならないと強調しましたが、その通りだと思います。洗礼を受けていない人に聖餐を授けることは、洗礼の意味を無に帰します。それだけでなく、この件の提案者の発言が、私にとっては許せないものがありました。それは、戦時に弾圧を受けて、教会は解散させられ、牧師は投獄されたホーリネス系の教師の苦しみを語った。「それと同じ過ちを犯して、免職教師を苦しめてはならない。」と教団の過去の過ちを引用し、それが今回の教団による免職勧告と同じだと言うのです。決してそうではありません。全く逆なのです。私に洗礼を授けてくださった牧師は、戦時に2年半投獄された牧師です。しかしこれは信仰に立ち、聖書のみ言葉に従ったが故の苦しみです。しかし、未受洗者に聖餐を授ける行為は、教団の教憲教規を無視し、聖書、信仰を踏みにじる行為なのです。このことの発言を許されず、私にとっては実に残念なことでした。
また議事で、日本維新の会共同代表・大阪市長・橋本徹氏への抗議声明が可決され。4.28「主権回復の日」記念式典に対する抗議声明が可決されました。私も個人的には同様の思いを持っていますが、教会という団体が成すべきことであろうかとの違和感を持ちました。信仰に立たず、この世の行動に関しては団結する。教会と別の抗議集会と見まごう総会でした。
ある牧師が、「個人を攻撃するのではなく、その人が悔い改め、主を知り、畏れるよう祈ることが教会の働きではないか。」と発言したことに私は共鳴しました。そして「外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。外部の人々は神がお裁きになります。『あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。』」(Tコリント5:12,13)との聖句を思いました。今日の聖句も、私たちクリスチャンの最も大事な勤めは「祈り」であると示しています。「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」(:1) それは教会内部のことだけでなく「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。」(:2) 自分の罪を認識できるよう、神に立ち帰るよう、この世の人々のため祈りなさいと言われます。これこそ、私たちのなすべきことです。「これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。」(:3)
今月は、第32回岡村アシュラムがあります。この世の忙しさ、騒がしさから一歩退いて、神の前に自分を吟味する時です。その準備祈祷が来週なされます。アシュラムはこの準備祈祷から始まっているのです。多くは自分の祈りたい時間に祈ってもらいます。しかし、連鎖祈祷をするのは、神の国の民として、「共に」との意識を確認するためでもあります。だから、祈祷表の祷課題には他者のための祈りと共に、祈りを受け継ぐ前後の人のためにも祈るよう記してあるのです。
私たちの信仰は神と私という縦の関係無しには成り立ちません。でも、共に支え、励まし、助け合う横の交わりを行ってゆかないと、この世を支配する悪しき霊に負けてしまいます。この縦、横の絆こそ祈りなのです。神が望んでおられるよう、私たちも周囲の方々の救いのために祈りましょう。「神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(:4)この神以外に天の下、人を救い得るお方はないのです。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」(:5、6) この私たちを、命を懸けて愛してくださったキリストと霊的に一致するために、最も大事なのが祈りなのです。
昨日、神奈川教区総会がありました。伝道師となる2名の准允式が行われ感謝でした。しかし、その他は、憂うべき状況、結果であったと私には感じられました。
各部、各委員会の報告は、一応承認された形にはなりました。しかし、それは、会計に関して疑義があり、会計報告は更に精査すべきということで、切り離して可決したのでありました。
未受洗者も聖餐にあずかることを善しとし、教団の職制委員から止めるよう勧告を受けても、執行し続けている教職に、教団から免職が言い渡されました。その教師の免職撤回を求める件が可決されました。
私はこれに関しては、反対で、発言を求めましたが、発言させてもらえませんでした。教団から問案吏として出席しておられた書記さんが、洗礼から聖餐へ、この順序は守られねばならないと強調しましたが、その通りだと思います。洗礼を受けていない人に聖餐を授けることは、洗礼の意味を無に帰します。それだけでなく、この件の提案者の発言が、私にとっては許せないものがありました。それは、戦時に弾圧を受けて、教会は解散させられ、牧師は投獄されたホーリネス系の教師の苦しみを語った。「それと同じ過ちを犯して、免職教師を苦しめてはならない。」と教団の過去の過ちを引用し、それが今回の教団による免職勧告と同じだと言うのです。決してそうではありません。全く逆なのです。私に洗礼を授けてくださった牧師は、戦時に2年半投獄された牧師です。しかしこれは信仰に立ち、聖書のみ言葉に従ったが故の苦しみです。しかし、未受洗者に聖餐を授ける行為は、教団の教憲教規を無視し、聖書、信仰を踏みにじる行為なのです。このことの発言を許されず、私にとっては実に残念なことでした。
また議事で、日本維新の会共同代表・大阪市長・橋本徹氏への抗議声明が可決され。4.28「主権回復の日」記念式典に対する抗議声明が可決されました。私も個人的には同様の思いを持っていますが、教会という団体が成すべきことであろうかとの違和感を持ちました。信仰に立たず、この世の行動に関しては団結する。教会と別の抗議集会と見まごう総会でした。
ある牧師が、「個人を攻撃するのではなく、その人が悔い改め、主を知り、畏れるよう祈ることが教会の働きではないか。」と発言したことに私は共鳴しました。そして「外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。外部の人々は神がお裁きになります。『あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。』」(Tコリント5:12,13)との聖句を思いました。今日の聖句も、私たちクリスチャンの最も大事な勤めは「祈り」であると示しています。「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」(:1) それは教会内部のことだけでなく「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。」(:2) 自分の罪を認識できるよう、神に立ち帰るよう、この世の人々のため祈りなさいと言われます。これこそ、私たちのなすべきことです。「これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。」(:3)
今月は、第32回岡村アシュラムがあります。この世の忙しさ、騒がしさから一歩退いて、神の前に自分を吟味する時です。その準備祈祷が来週なされます。アシュラムはこの準備祈祷から始まっているのです。多くは自分の祈りたい時間に祈ってもらいます。しかし、連鎖祈祷をするのは、神の国の民として、「共に」との意識を確認するためでもあります。だから、祈祷表の祷課題には他者のための祈りと共に、祈りを受け継ぐ前後の人のためにも祈るよう記してあるのです。
私たちの信仰は神と私という縦の関係無しには成り立ちません。でも、共に支え、励まし、助け合う横の交わりを行ってゆかないと、この世を支配する悪しき霊に負けてしまいます。この縦、横の絆こそ祈りなのです。神が望んでおられるよう、私たちも周囲の方々の救いのために祈りましょう。「神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(:4)この神以外に天の下、人を救い得るお方はないのです。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」(:5、6) この私たちを、命を懸けて愛してくださったキリストと霊的に一致するために、最も大事なのが祈りなのです。