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礼拝説教要約(2013年8月25日)
聖書・マタイ福音書13:44〜52
「天の御国を得る者」
 夏休みを戴き、妻の実家へ行って参りました。日本の、民族大移動(お盆)の時期を過ぎていましたので、大して渋滞に遭うこともありませんでした。なぜ、お盆にこんなにも故郷へ帰るのでしょう。私も二十歳まで、熱心な浄土真宗の家で育ちましたから、その思いは分かります。
 日本の宗教観は先祖を神、仏と見ます。神と仏は大分違うわけですが、一般には混交しています。そして仏も神的拝む対象であるかと思うと、迷わず成仏するようにと拝んでもらわねばならない存在であります。実際は矛盾しているわけですが、そんなことには無頓着で、何となく拝むわけであります。それは儀礼であり、鎮魂であります。そして信仰は死後のためのものであります。ですから若者は「未だいいや!」と信仰を求めようとはしない傾向が強いわけです。天国は死んでから行く所。でも行けるかどうか分からないので、常にどこかに迷いと不安の思いがあるのです。
 イエス様が「天の国は」と話す時、死後の問題ではなく、今、どのように生きるかが問われています。
 「天の国は、…畑に宝が隠されている。…持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(:44) 全ての物を売り払ってでも手に入れたい、最高に価値ある素晴らしいものであります。人生において何が大事なのでしょう。豪華な家ですか、美食ですか、地位、名誉ですか?どんなに金を出しても買えない愛、喜び、平安こそ、その人を真に幸福にしてくれる宝です。
 ある父親が「畑に宝を隠しておいた」と言い残して死にました。息子は毎日毎日、畑を掘り返して宝を探しました。その畑に素晴らしいぶどうが実りました。これこそ宝です。日々働く中で、働く喜び、収穫の喜びを見出すことが出来ます。そして父の愛を知りました。自然と交わる中で、平安を得ました。神の造られた自然の中にこそ、どんな犠牲を払っても得たい宝があるのです。
 そしてそれは、ここにあります。イエス様が教えてくださった「主の祈り」の中に「御国を来らせたまえ 御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」神の御心を行うところに、天の国、真の幸福があるのです。神の御心を受け入れる。神のみ心は全てに人が救われることです。そのためにイエス様は命を賭けて神の愛を示されました。この神に自分を委ね、神の御心を生きるとき、心の平安を体験できます。
 45~46節の真珠の喩えは、天国が最も美しく高価なことを示しています。聖書の時代は真珠が最も美しい宝石でした。でも、真珠にも色々あるのです。「高価な真珠を一つ見つけると…持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」とあります。この世にも、価値あるものは一杯あります。食物生産。工業生産。芸術、音楽、文学、スポーツ等々。しかし、最高に価値あるものは真の交わりです。イエス様に友と呼ばれるだけでなく、兄弟姉妹と呼ばれる神の家族の一員とされることです。キリスト者たちは迫害にあっても、どんな犠牲を払ってでもこの、主キリストとの交わりを求めてまいりました。
 その主キリストを中心とした交わり、天の国は死後のものではありません。今ここに、あなたが神の御心を生きようと心定め、イエス様とその弟子・クリスチャンとの交わりに入った時、あなたは天の国にいるのです。つまり、教会が天の国の入り口、また、雛形なのです。ここには分け隔てがありません。裁きがありません。かといって、何でも許されるわけではありません。人は裁かなくとも、神が裁かれることを心に留めなくてはなりません。
 「天の国は…網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。…良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。」(:47~49)
 イエス様の弟子たちは家も、職業も、今までの経験知識、能力も委ねて、イエス様に従いました。それは、天の国が人間の知恵や知識を凌駕し、人知では知ることの出来ないものだからです。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(Tコリント1:21) しかし、それらの知識や能力も神様が与えたものであります。献げても、神の御心に従って用いるようになる時、前にもまして尊く用いられるのです。「天の国のことを学んだ学者」(:52)のように、あなたも、神があなたに与えてくださっているもの(倉から)を、自分の栄光のため(古いもの)ではなく、神と人々のため(新しいもの)に用いてみませんか。きっとそこに天の国の祝福を味わうことができるでしょう。
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