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礼拝説教要約(20131013日)

                          聖書・マタイ福音書251431
「賜物は誰のもの」     

 私たちの教会でも行っているアシュラムの第一原則は「きりストへの明渡しと服従」であります。ここには、「アシュラムの目的は、…私たちを真のキリスト信者に造り変えることである。」とあります。日本の戦国時代、城を明け渡すというのは、城を破壊したり、焼き払ったりすることなく、そのまま渡すことでありました。アシュラムでの明渡しも、ありのままの自己一切を、主イエスに無条件で明け渡すのであります。当教会初代の梅澤牧師も、信徒が相談や祈りを願いに行くと、「委ねなさい。祈りましょう。」という対応が多かったと聞いております。「委ねる」と「明け渡す」は同じことであります。

 このように、すべてを神様に委ねると言うと、この世の人の中には、「クリスチャンは努力しないで、キリストに頼りすぎている」と批判する人もいます。しかし、「委ね、明け渡す」ということは、何もしないということではありません。何も努力しないで、人生面白いはずがありません。神様は私たちに楽しい素晴らし人生を計画しておられる方です。

 あなたの人生は今、面白いですか。神に託されたタラントン(賜物)を用いる人生は面白いものです。そして神様はすべての人に成すべき使命とタラントンを与えておられるのです。今日の聖書の箇所はそのタラントンの譬えが記されています。

 マタイは、人には莫大な賜物が預けられていると言っています。ルカも賜物について語っていますが、彼はそれを「ムナ」と表現しています。1ムナは100デナリ (1デナリ=1日の労賃価格) です。1タラントンは6000デナリですから、マタイは、人生は60倍も面白く生きることであると言いたかったのかもしれません。

 今日の焦点は、5タラントン、2タラントン預けられた人ではなく、1タラントン預けられた人です。

 この1タラントン預けられた人は、タラントンの量を他の人と比較して、すねています。タラントンとは重さであって、1タラントンでも鉄、銅、銀、金によってその価値は異なってしまいます。聖書は人を器に喩えているところがあります。神が陶造りで私たちは神によって造られた陶器です。また「金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり」(Uテモテ2:20~21)とあります。だから、料だけが問題ではありません。あなたのタラントンと他の人のタラントンは室が違うかもしれません。神様はそれぞれの人に、種々の賜物を預けているのです。大事なのは、その賜物をどのような心で用いるかです。清い心で用いるなら、それは貴い物になるのです。神は一人一人に見出せば天国の喜びを味わう、最善の賜物を与えておられるのです。

 そのタラントンは、預けられているのであって、あなたのものではありません。いつか預け主と清算する日が来るのです。いかにそれを用いたか責任を問われるのです。だから、多く、良質の物を与えられている人は、傲慢になることなく、それに対して真実に応答しなければなりません。自分にはタラントンがないなどと考えてはなりません。それは与え主である神に対し心の壁を作っていることになります。つまり、見えないように、使わないように、損しないようにと、土の中に隠しているようなものです。自分はだめなやつだと思うことは、神を悲しませることです。なぜなら、他者と違っているとしても、神は一人一人に対して最善をしてくださっているのです。そして、終わりの日には、清算をするのです。その時「良い忠実な僕だ」といわれる人は幸いです。またその人の人生はきっと、活き活きとした楽しいものだったことでしょう。しかし、自分はタラントンが少ないとすねて、賜物を隠していた人の人生は、つまらないものになってしまいますし、神はその人を「怠け者の悪い僕だ」と裁かねばならないのですから、神様を悲しませることになるのです。

 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、なたがたのなすべき礼拝です。…私たちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」(ローマ12:1,4~5)

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