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礼拝説教要約(20131027日)

                            聖書・マルコ福音書10:1〜12
「一体となる」

 先週の特別伝道集会ご苦労様でした。妻は先週の午後の集会を休んで、甥子の結婚式に行きました。日曜日のこのような特別集会を彼女が休んだというのは、初めてのことではないかと思います。妹の子ら4人、初めての結婚式です。ちなみに、弟のところも3人、兄のところ3人、私のところも3人で、13人の子、甥、姪で、結婚しているのは2人となります。

 このようなことを話しますのは、現代は晩婚が多くなっただけでなく、結婚しない人も多くなっているという実例でもあるからです。それだけでなく、友達がいないという人も多くなっています。そのため「レンタルフレンド」なる職業まで現れていると新聞で取り上げられていました。一緒に食事、買い物、映画を見、ゲームをし、悩みを聞いてもらう。それが、お金を払って付き合ってもらうレンタルフレンドです。心を通わせあう人がいない。悲しむべき時代です。

 今日の聖句の「離縁」についても、どのような時代でもあったことが分かります。しかし現代は、離婚が当たり前という時代になっています。日本でも結婚して3組に1組は離婚という統計が出ています。バツ1、バツ2は当たり前という時代です。

 ファリサイ人はイエス様を試そうとして質問します。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」(:2)との問いは、モーセ(律法)が離婚を許している。だから何ら罪ではないでしょうというのです。これは、「そうではない」と言うであろうイエス様が律法を知らない者、否定する者と周囲に思わせたい訳です。しかしイエス様は、根本的な神の御心はドウであるかを天地創造の初めに戻って語ります。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(:6~9)と、律法に対するイエス様の態度を明らかにしています。これが神の御心であり、聖書の結婚観です。では何故、モーセが離婚を許したのか。それは、人の心が頑なであるからだと指摘しています。

 1、人の心が神から離れている。2、だから、人間の知性が、神の意思を本気で捜し求めようとしない。3、それゆえ形式的な、書かれた基準・律法で満足し、それに頼っている。しかし、律法は人間中心主義への妥協であって、本来の神の御心ではないよ、とイエス様は別のところでも語っています。マタイはイエス様の最初のメッセージを山上の説教として纏めています。そこには「昔の人は『…』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。『…』」律法として文字に書かれたものよりも、神の御心は深く、もっと人間の成すべき大事なものがあるというのです。

 しかしイエス様は、この世的なことを通して、弟子達には、神の御心、イエス様の「神の国」理解を示しています。「一体になる」とは、相手の思いが自分のものとなり、自分の思いが相手のものになることだと言うのです。

これが結婚の奥義であり、イエス様と教会(弟子)との関係を表すというのです。

 今週、第2回目の、サムライウーマン新島八重の読書会をします。八重は、人力では許せない、戦争による心の傷を持っています。それを癒せるのは神の愛だけです。兄によって導かれ、聖書に出会い、新島襄と出会う。この神の愛を生きている新島襄の思いは、この愛だけが日本人の心を癒す、この心を持って戦後の新しい日本を築く若者達を育てたい。この心の思いは、いつしか、八重の思いになってゆきます。これが一体となるということです。

 イエス様の思いが私の心の思いとなる。パウロは言います「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20) 「わたしは、キリストの体の一部なのです。『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:30~32)私もそう言えるものでありたい。

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