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礼拝説教要約(20131222日)

                               聖書・ルカ福音書1:4756
「わたしの魂は主をあがめ」

 「今日もまた、いたく優れる御心の、成されしことを、我は信ず」これは私の敬愛する先生が、獄中で毎日となえていた祈り・歌であります。神様が自分の思いを超えて、更に優った業を、今日も成してくださるとの平安、確信が主への讃歌となっていることが伝わってきます。

 今日の聖書「マリアの讃歌」を読んでいて、この祈りが心にわき出てきたのです。それはきっと、この2つの祈りに、試練を讃歌へと変えてゆく同じ信仰を見たからでありましょう。

 このマリアの讃歌は「マグニフィカート」と呼ばれ、教会の最大の讃美歌と言われております。わたしもイスラエル旅行の時、ザカリアの家だったという教会に行きました。その教会にはマグニフィカートが世界各国の言語で記されて飾られていました。今でも全世界で愛されている讃歌です。「マグニ」とは拡大する、「フィカート」は形成するという意味があるので、私流に訳せば「更に大きなことを成す」神を崇めている讃歌と言えるでしょう。

 ナザレという寒村に住む一人の乙女。マリアは婚約という最も喜びに溢れる時期を過ごしていました。でも、未だ婚約者ヨセフとの間に男女の契りも無いのに、身重になることを告げられたのです。現代の日本なら、シングルマザーとして話題にもならないかもしれませんが、2000年前のイスラエルでは、これは死刑になる大問題でした。しかしマリアは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(1:35)と言う天使の御告げを受け入れたのです。ここに、マリアの信仰があります。神様は私の考え計画よりも、更に優った計画を持っておられる。このことはヨセフとの婚約解消、いや、死刑となるかもしれない試練にあうであろう。しかし、神は愛なるお方ゆえ、私に最善を成してくださると信じたのです。

 試練も覚悟の上で「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(:47)と主を讃美し祈ったのです。「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。」(:48)と、今はどうであろうと、後には幸いな者としてくださる。いや、今、神に必要とされ、用いられること自身、幸いなことであるとマリアは受け止めたのです。その信仰通り、2千年経た今、マリアは救い主の母として、世界中で最も愛し慕われている女性であることは確かです。

 そのマリアの讃歌は単に美しいだけではありません。人の生き様を変えてゆく力を宿しています。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(:51~53)るのが救い主の到来です。おごり高ぶることが、罪として最後に残るものだと言われています。それは行為の更に奥底にある罪です。救い主はその人の心を変革するのです。人は、争いは破壊と悲惨さしかもたらさないことを体験しつつも、それでも、争いを続けています。権力を得るために争います。権力は人間の間に貧富の格差を生み、貴賎の差別さえも生み出してしまいます。だからその権力を保持するために、更に、戦い続けるのです。権力は武力に裏打ちされています。だから武器を手放せないのです。

 大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重の兄・山本覚馬が、同志社の卒業式で卒業生に贈った訓辞に「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ書2:4)は、神の国を、主にあって祈り求める者となれとの、強い願いが込められています。

 身分の差別は、他者を虐げ、抑圧、搾取し、貧富の差を生み出します。でも救い主のもたらす神の国では、すべての立場が逆転すると歌うのです。神の前では皆等しく、愛のみが支配する唯一の律法となるのです。

 その救い主の誕生を、喜び、「わたしの魂は主をあがめます」とマリアと同じ、信仰をもって歌います。

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