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                                                       礼拝説教要約(2014年5月18日)

「主に向かって喜び歌おう」  聖書・詩編95:1〜11

 今日の午後、祈っていたチャペルコンサートです。安田正昭兄にお出でいただいたことを心から嬉しく思います。兄弟の演奏には、主への讃美が包み込まれています。だから、今日の礼拝では主への讃美を、喜び歌いたいと願っていました。そして、この詩編を示されました。

 この詩編は、ローマ・カトリック教会の聖務日課や聖公会の祈祷書では、毎朝唱えるテキストとされています。毎朝、主を喜び、誉め歌をうたってスタートする。きっと素晴らしい1日になると思いませんか!

 「喜び歌おう。喜び叫びをあげよう」と呼びかけています。「喜び叫び」を英欽定訳聖書では「喜びの騒音を立てよう」と訳しています。あまり良い訳とは言えませんが、楽器も加えてということでしょう。讃美は歌声だけで、楽器を加えてはならないとしている教派もあります。でも、聖書の中ではダビデが竪琴を弾いたことや、女預言者ミリアムがタンバリンを敲いたことも書いてあります。ですから、笛や太鼓の打楽器、弦楽器など何を使ってでも喜びを表現すことを勧めています。「楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。」とその喜びの大きさは計り知れません。

 誰に向かって歌うのでしょう。「主に向かって」です。「主は大いなる神、すべての神を超えて大いなる王」(:3)とあります。聖書の神観念は唯一神ですが、この世の人々は、種々の神々が存在すると考えています。ですから、そのような偶像神などをはるかに超えた神こそが「主」であると言うのです。そしてその主は、「深い地の底も御手の内にあり、山々の頂も主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。わたしたちを造られた方、主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。」(:4〜6)とあるように、主なる神は創造神です。この世の人々は、山には山の神、海には海の神が存在すると思っています。しかし、それらは主なる神が造られたものです。人間が目にするものだけでなく、それを超えた「深い地の底、山々の頂」(地獄を連想、山頂を超え天国を連想)も主の御手によって造られ、今もその御手の中にあり、保持されている。それどころか、私を造り、あなたを造って命を与えたのも主である。そのようなお方の前には、ただひれ伏すのみ。褒め称えないでおれましょうか。

 主は偉大であるが故に、伏し拝むだけではない。その慈しみの故に、私たちは褒め称えないではおれないのです。

「救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう」と言っています。聖書の民イスラエルがエジプトから救い出され、約束の地への旅路にあった
40年。主は共に居て導き守りました。彼らが旅したのは荒野でした。食べる物も飲み水もありません。彼らは紅海での奇跡、救いをあんなにも喜んだのに、試練がくるとすぐ不平不満を述べ、モーセを殺そうとまでしました。主を全能の主、無から全てのものを造り、今も保持しておられるお方だと信じる信仰がないため、不安となりつぶやいたのです。信仰こそ真の平安と喜び、感謝を与えます。不信仰な民に代わって、モーセは祈りました。主はモーセの祈りを聞き、天からのパン・マナを降らせました。時に、東風に乗せて、鶉を送られました。また、生きるに最も必要な水を、岩から湧き溢れさせたのです。「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」(出エジプト17:6) このようにして主はイスラエルの民の命を守られたのです。「皆、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでした。この岩こそキリストだったのです。」(Tコリント10:4)とパウロは荒野で水を出した岩こそ先在のキリストだったと説いています。

私たちも試練のとき、不信仰な者になるのではなく、いかなる時も主を信頼し続ける者でありたいです。主に守り、養われていることを心より感謝し、主を喜びましょう。「御前に進み」とあります。これは主に向かって真っ直ぐ顔を向けることです。怒ってそっぽを向いたり、ひねくれて斜に構えたり、ましてや逃げ出そうと背を向けるのではなく、主に向かって真っ直ぐ顔を向け、主を褒め称え、喜び歌いましょう。

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