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                                                       礼拝説教要約(2014年1月12日)

                         聖書・マルコ福音書1:1〜11
「水の中から上がる」

 今日は受洗感謝会です。本日の聖句で言うなら、水の中から上がった人々の感謝会です。12月にも前半のバプテスマのヨハネに焦点を当ててみ言葉を聞きました。今日は後半の受洗者に焦点を当てて黙想したいと思います。

 「ガリラヤのナザレから来て」(:9)と書かれています。ナザレはイエス様の時代には名も無き寒村でした。イエス様の弟子になったフィリポが友のナタナエルに出会い、「自分は預言されていた救い主に出会った、それはナザレの人イエスだ」と言った時、ナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と疑い深げに言ったことでも分かります。それ故、誰にでも分かるように「ガリラヤ州にあるナザレ」と表現しているのです。またこれには、この方が預言されていた「ナザレ人」(マタイ2:23)という、救い主の表現方法の一つであります。イザヤ書11:1に「一つの若枝=ナザル」とあります。これは救い主の別表現です。また、士師記13:5には、士師サムソンはナジル人=神に聖別された者と言われています。これらを合わせ、イエス様のことを「神に聖別された救い主・ナザレ人イエス」と紹介しているわけです。

 ヨルダン川は世俗のこの世と神の約束の地の境界を現しています。このヨルダン川で洗礼を受けることで、この世に死に、神に生きる者となることを表しています。この洗礼は「悔い改めの洗礼」と呼ばれるもので、罪を認識し、公に告白し、罪(自己中心に歩む)に対する決別です。そして、神に向かって歩むことを意味します。

 罪の無いイエス様は、この悔い改めの洗礼は不要のはずです。それ故、ヨハネの方が「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」(マタイ3:14)と言いました。このイエス様には不必要なはずの洗礼については、多くの人がいろいろの解釈をしています。その中で最も多いのが「イエス様は全人類の罪を背負って、身代わりに洗礼を受けた」というものです。しかしそう解釈すると、この時、人間の罪は赦されることになります。だから私はそうではなく、この時、人間の罪を引き受けて、十字架への道を歩みだしたと理解しています。イエス様は、自分が神の子であるとの自意識は小さい頃からありました。12歳の時、神殿で「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(ルカ2:49)と言っています。

  しかし、神の子としての自覚だけではメシアにはなれないのです。洗礼を受けた時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声がありました。この時、イエス様のメシアとしての覚悟は決まったのです。それは「主の僕」としての道です。主の僕についてはイザヤ書に預言されています。最も良く知られている主の僕の預言は53章です。「渇いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。(:2)…彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。(:5)…屠り場に引かれる子羊のように、…捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。(:7,8)」ここには十字架に向かうメシアの姿が預言されています。私たちはこのメシアなるイエス・キリストの十字架の死による贖いによって、神の前に罪赦される恵みを受けたのです。 

  しかし、2000年も前に死んだイエス様の死によって、わたしの罪が赦される。理屈では、誰かが身代わりになってくれることで、助けられるということは理解できます。このことを素直に受け入れられる人は幸いです。でも、多くの人は受け入れ難いのではないでしょうか。わたしもそうでした。しかし、私は洗礼を受けたその時、聖霊が私にこのことを理解させてくださいました。洗礼を受け立ち上がる一瞬のうちに、今までの私の人生が、走馬灯のように頭に閃きました。そして、私を選び、導き、今に至らせてくださったのは神様だったと、受け入れざるを得なかったのです。水の中から立ち上がるとき、天は裂け、創造の時共に働いた聖霊は、私を生まれ変わらせる再創造の時にも働いてくださっているのです。そして、人間の知恵を超えて心に、神の真理を理解させてくださったのです。

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