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                                                      礼拝説教要約(2014年1月26日)

                            聖書・マルコ福音書1:21〜34
「権威ある新しい教え」

 「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とのみ言葉は、イスラエルでは周知のことでした。イエス様一行も安息日に会堂へ行かれました。会堂では私たちの礼拝と同じように讃美し、祈り、聖書朗読の後、律法学者やラビが律法を説きました。会堂長が許すなら、訪問者でも説教することができました。

 イエス様については、素晴らしい預言者・ラビが現れたとニュースになっていたことでしょう。なぜなら、バプテスマのヨハネが信頼し、自分の弟子をさえ託した人物だったからです。バプテスマのヨハネはエリヤの霊を持っている人物と敬愛されていました。彼の話を聞くためにエルサレムとユダヤ全土、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々が彼のもとに来て、悔い改め、洗礼を受けました。(マタイ3) そのヨハネがイエス様を指差し「見よ、神の子羊だ」と言いました。その時以来、ヨハネの弟子であった者の中で、イエス様に従う人々が起きたのです。(ヨハネ1:35以下)

 それで、イエス様が会堂で話しすることも、会堂長は快く許し、イエス様は話をする機会を与えられました。その話は「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」(:22)とあります。その権威ある話とはどんなものだったのでしょう。ルカはナザレでのイエス様の説教について詳しく書き残しています。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしておたちになった。…『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』…そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」(4:16~21) これはお話したと言うよりは、宣言したと言うべきでしょう。イエス様は「わたしこそが預言を成就するために来た『遣わされた者』である」と言われたのです。そして、悪霊を追い出し、病を癒すイエス様の権威ある姿に、人々は驚き「権威ある新しい教えだ」と告白しました。

 権威とは人々が自発的にその霊的能力に同意し、服従するものです。その権威は神から与えられます。それに似てはいるが否なるものが「権力」です。権力は相手を威嚇し、武力により強制的に同意し、服従させる力です。

 近頃のニュースで権力を振りかざして、強制的に服従させようとしている人物は、北朝鮮の金日恩さんでしょう。彼は、自分の権力を奪われはしないかとの恐れから、ナンバー2の立場にある叔父の張成沢氏を処刑しました。その直前に二人の側近を、その翌日には6名を処刑したと言うニュースがありました。権力争いだけでなく、市民を監視するために盗聴マイクを仕掛け、有線放送や携帯電話も盗聴されているとのこと。屋外でも集音マイクが使われ、市民はどんなに親しい間柄でも、3人以上になれば込み入った話はしないとのこと。戦時の治安維持法のように、市民を恐れで拘束している状態です。なんと暗く恐ろしいニュースでしょう。

 でも日本も現在危うい道を歩み始めているように感じます。日本は自由があり70年も平和であります。しかし、その平和を守ってきた平和憲法9条が変えられようとしています。集団的自衛権をもって、戦争のできる国にしようとする動きがあります。昨日の新聞に阿部首相がスイスであった会議で「今年は第一次世界大戦から100目だ。イギリスもドイツも経済的依存度が高く、最大の貿易相手国だったが、戦争が起こった。」「日中は第一次世界大戦前の英独関係と似た状況にある。」「偶発的な衝突が起こらないようにすることが重要だ」と日中の武力衝突の可能性を問う質問に答えた。この首相の発言は日中の偶発的衝突を通して戦争が起こる可能性を示していると、欧米に驚きをもって波紋を投げかけている。戦争は恐れから起こる。人々に恐れの念を起させるのはサタンの業であります。

 しかし私たちの戦いは、恐怖を与え、戦いを起こさせようとする悪の霊の働きに対する戦いであります。(エフェソ6:12) 私たちは真の権威である創造主の偉大な力によって、この悪しき霊と戦うのであります。イエス様はこの権威を持っておいでになりました。そしてこれを弟子たちに託すと共に、一緒に働いてくださるのです。

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