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                                                       礼拝説教要約(2014年2月2日)

                      聖書・Tコリント6:12〜20
「聖霊の宿る神殿」

 宗教というと、何となくけ嫌いなさる方がいる。信仰をもつと聖人君子でなければならないとか、堅苦しさを感じるのではないでしょうか。しかし、「わたしには、すべてのことが許されている。」(:12)とあるとおり、何を行っても良い、あれはだめ、これはだめなどと制約は無く、何でも自由、心のままに何でも行うことを許されているのです。

 でもこの「すべてのことが許されている」という言葉は、コリントのグノーシス主義の人々が言っていた言葉なのです。彼らは「霊的に覚醒した者は、肉体的なことはもはや重要ではない。だから肉体的なことはどんなことをしても問題ないのだ」と放縦に陥っていました。パウロは彼らの放縦をいましめ、誤りを正すために、一応は彼らの言い分を受け入れました。なぜなら、霊的に目覚め、信仰の強くなった人々は、確かに束縛をされない自由な人になれるのです。たとえば、8章で偶像に供えた食べ物を食べたら汚れるのか否かについて述べています。目覚めた信仰の強い人は、「世の中に偶像の神などは無く、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」だから偶像に捧げた物ものだからといっても、単なる食べ物でしかない。食べ物は口から入り、外に出てゆくだけで、人の霊を汚すことなど無いとパウロは言っています。しかしそのために霊的の弱い人が、確信が無いのに、真似で食べたら、良心が攻められ、罪を犯した、汚れてしまったと思うようになる。つまり、躓かせてしまうことになる。だからパウロは「食物のことがわたしの兄弟を躓かせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」(8:13)と言っています。神が造られた食べ物で、霊的に人を汚すものは何一つ無い。しかし、人を躓かせない配慮として、自分は積極的な意味で食べない方を選ぶのだと言います。

 またコリントの人の中に、「何でも食べて食欲を満たして良いように、性欲を満たすために、遊女と交わっても良い」とまで言い出す人々がいました。しかしそれに対して、断じてそうではないと毅然として言います。

近年、日本でも男女のモラルは乱れています。本来日本にもコリント的要素がありました。門前町に遊郭があるのは当たり前でした。吉原などの花町に公娼がいました。儒教の支配した封建制度の時代だけではありません。明治になってからも、女性を、性欲を満たす道具と考える傾向が有りました。しかしそれは、神の願う男女関係ではありません。男女関係は「二人は一体」と言われています。またそれは「キリストと教会の関係」と言い表され、命を懸けて愛し守り、それに絶対的信頼を持って従うのです。これは二人が互いに欠けを補い合いつつ、イエス・キリストの姿へ成長する必要な助け手であるということです。封建時代でもキリスト者であった黒田官兵衛や蒲生氏郷は、側室の居るのは当たり前だった殿様であったにもかかわらず、生涯一人の妻を愛しとおしました。キリスト教はこのような日本の体質に対し、明治になって廃娼運動を展開しました。それがキリスト矯風会です。

みだらな行いをする者は、もし、合意であって他者に迷惑をかけることが無いとしても、自分の体に対して罪を犯すこと(:18)であると言っています。神の創造摂理に反しているからです。肉体は物質であるとは言え、特別な存在です。「あなたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」(:19)だとパウロは言います。神殿とは、執り成しをし、神と交流する場であります。イスラエルでは犠牲を捧げる祭壇がありました。イエス様は「わたしが神殿である」言われます。それは、祭壇が果たす使命、執り成し、罪を贖う犠牲の行為をイエス様が十字架に架かることによって完全に果たされたからです。そして私たちと神との交流を回復してくださったからです。その神殿としての働きを成されたのは、市外のゴルゴタでした。いまや神殿は奥まった、近寄りがたいところではなく、巷に有るのです。

「あなたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(:20)とあるのは、あなたに、イエス様は神殿としての役目を託されたということです。それは、他者のために執り成し、神との和解の福音を知らせるということです。なんと栄光に富んだ働きでしょう。

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