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  礼拝説教要約(2014年2月23日)

「信仰によるいやし」   聖書・マルコ福音書2:1〜12

 現代は、なんと多くの人が病んでいることでしょう。医学が進歩して、病は少なくなり、克服されつつあるとお考えでしょうか。そうではないですよね。薬によって退治したと思った病原菌も、薬に抵抗力をつけ、更に強力なものになってしまいます。人間の知力と病原菌の突然変異の追いかけっこです。そして、現代はストレスを感じ、心が病んでしまう状況は増加の一途をたどっています。今日の聖書の箇所は、肉体の病と心の病の関係を良く示しています。先人達も病は気からと言いました。

 イエス様の宣教の中心は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」という、御言葉を語ることでした。神の国とはなんであるか。神の愛のみが支配しているところであります。そこから迷い出た人間が、そこに戻るためには、自分の罪を認識し、悔い改めることが必要であります。イエス様はこの神のご計画である救いを、信仰をもって受け入よと語ります。

 しかしそれとともに、イエス様は、嘆き苦しむ者を見ると、その人をほって置くことができませんでした。愛がほとばしりで、それが奇跡となりました。しかし、イエス様は、御自分が神の国をもたらしていることを受け入れようとしない状況を嘆き、奇跡を行われたこともありました。変貌の山と呼ばれるようになった所で、イエス様は中心的弟子たちを前に、復活後の輝く姿に変わられました。その直後です。麓に居た弟子たちは悪霊に勝利できず難渋していました。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」と言って、悪霊を追い出されました。

 しかし、奇跡をなすこと、人の病を癒すことがイエス様の目的ではありません。偽宗教家はこれらの行為をなすことを目的としています。そしてその力を誇示し、人々に驚愕を与え、自分が特別な者であるかのように見せかけたいのです。

しかし今日の聖書箇所では、人々の信仰見て、イエス様は喜ばれました。それはカファルナウムでありガリラヤ伝道の拠点でした。弟子となったシモン・ペトロ等の故郷であり、ペトロの姑を癒したこともありました。「家におられることが知れ渡り」とありますから、この家はイエス様と弟子達の生活の場だったのでしょう。4人の人が中風(脳卒中の後遺症で麻痺が来て寝たっきりになった人)を担架に載せて連れてきました。大勢の人が戸口あたりまで集まっていました。到底入れないことを悟ったこの5人の人は、屋根をはがして穴を開け、病人の寝ている床をつり降ろしました。本来なら、なんと非常識な!と怒るのでしょうが、イエス様はその行為の中にこの人々の信仰を見ました。時として信仰は非常識に見えることがあります。彼らは怒られることや、弁償しなければならないことより、イエス様は必ず理解下さるだけでなく、癒してくださる全知全能なる方だと信じての行動だったのです。「子よ、あなたの罪は許される。」とイエス様は言われました。「神を冒涜している」と思った律法学者だけでなく、大方の人がイエス様のこの言葉をいぶかったことでしょう。この病人は中風なのです。現代はパソコンのインターネットで、私のような素人でも、中風の原因を知ることが出来ます。「食生活の偏り、運動不足、睡眠不足、ストレス、喫煙、飲酒、生活習慣の乱れ」等と記されています。日本では1960年ごろになると死亡率第一位になりました。今でも第3位ですが、減ったのではなく、治療が進んだのであり、病気にかかる人は増加傾向にあります。ストレスの多い現代病と言えましょう。だから、この病気にかからないためには、心が変えられることが大事なのです。生活習慣が変わり、心の平安と喜びを得ることが最も大事なことだといわれています。

 この中風を病んでしまった人にも、生活の乱れやストレスがあったのでしょうか。もしそうだとしても、それが罪なのでしょうか。もしそうなら、現代人は更に多くの罪を犯していると言わねばなりません。そうです。神の国には病も患いも無いのです。神の御旨から外れて生きること、自分中心に生きることを聖書では罪と言っています。だから、病が癒されるためには、神の御旨に歩むことからの平安が必要なのです。イエス様はこの人の心を先ず癒されたのです。イエス様が罪を赦す権威を持っていることを信じることができた者は、心が癒されます。そして病は癒えるのです。だから大事なのは信仰です。でも信仰とは、自分の思うとおりに願いがかなうことではありません。神は私に最善を成してくださると、神の愛を信頼する者へと、自分が変えられることなのです。

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