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礼拝説教要約(2014年4月20日)

「見て 信じた」     聖書・ヨハネ福音書20:1〜10

 ハッピーイースター!
  イエス様が十字架にかかることを覚悟して、エルサレムに入場したのが、先週の棕櫚の日曜日でした。そのときから1週間、今年の受難週は、イエス様が十字架に向かって行く御苦しみの聖書箇所を、ヨハネによる福音書から読んでまいりました。この間に、何人かの人に手紙を書きましたが、その書き出しは「主の御苦しみを偲びつつ」といたしました。

3年間、イエス様と行動を共にした弟子たちは、最終的にはイエス様が勝利なさると思っていました。しかし、イエス様ご自身預言しておられたように、捕らえられ、十字架の上で死んでしまったのです。この弟子たちの頭は混乱していました。自分たちの考えと実際の結果がまったく違ったわけですから、この混乱は当然です。そして、失望と不安に捉えられてしまいました。でも、密かに弟子になっていた議員のアリマタヤのヨセフやニコデモは、イエス様を守れなかったことを悔いていました。それで、本心に立ち返り、総督ピラトに願い出、イエス様の遺体を願い受けたのです。イスラエルでは夕暮れをもって1日の終わりとしました。ですから、次の日・安息日になる日没前に、埋葬のための香料を手早く塗り、亜麻布に包んで墓に葬ったのです。その後、弟子たちはどんな思いで過ごしたのでしょうか。

直弟子たちは希望を失い、恐れの中に潜んでいました。しかし女性たちは、早く安息日が明けるようにと願い、夜明けを待ちきれないで墓へと向かいました。マルコは3人の女性たちが墓へ行ったと書いています。でも彼女たちも冷静ではありませんでした。自分たちが行っても、墓穴の石の扉は動かしきれないことなど忘れていたのです。でも、神自らが天使を用いて、石を取り除いて下さっていたのです。これは、イエス様にお会いしたいという切なる願いがあるなら、神がその障害物を取り除いて下さるということを暗示しています。イエス様にお会いする障害は、イエス様の言われたことを素直に受け入れられず、失望していた弟子たちのように、その人の心にあるのです。自我という障害物を取り除き、イエス様の言葉(聖書)を素直に心に受け入れるとき、道は開けます。

墓が開かれ、「主が墓から取り去られた」との知らせを受けたペトロとヨハネは、走って墓へ行きました。若かったヨハネが早く墓に着きました。彼は恐る恐る墓の中を覗き込みました。イエス様を巻いたはずの亜麻布が置かれています。「アレッ、変だなー、遺体を持って行くのだったら、亜麻布で包んだままのはずなのに!」と不思議に思いました。ペトロも着き、墓へ飛び込みました。ヨハネも入り、頭を包んでいた覆いもすっぽりと別の所に置かれていました。彼らは、見て信じたのです。「イエス様は盗まれたのではない。復活されたのだ」と。

しかし、聖書は「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(:9)と書いています。彼らは、イエス様が十字架にかかる前に「彼らは人の子を、鞭で打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」(ルカ18:33)と言われていたことを思い出し、その通りであったので、信じたのです。でも、聖書の真理を理解してはいませんでした。だから、驚きつつも、喜びや平安はまだ、湧いてこなかったのです。

感謝なことに、私たちは、この聖書の言葉を理解することが許されています。それは、イエス様の復活は、イエス様の言葉、聖書に約束されていることが、すべて真実であるということです。それは、神の前に罪人として裁かれなければならない私たちが、イエス様の十字架の死によって、罪を赦され、神の子とされているという事実です。主に感謝し、主を褒め称えましょう。

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