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    礼拝説教要約(2014年4月27日)
                                         聖書・ヨハネ書202431

「見ないのに信じる人は 幸いである」

 先週、空になった墓と亜麻布を見て、弟子たちはイエス様の復活を信じました。でも、十字架の死と復活の真理を理解していなかったので、「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」(ヨハネ20:19)とあるように、恐れて、家に潜んでいました。そこにイエス様が「シャローム(あなたがたに平和があるように)」と現れなさったのです。

 イエス様は手とわき腹の傷跡をお見せになりました。それを見た弟子たちは喜びました。更に、「聖霊を受けなさい。」と主は言われたのです。聖霊は真理の霊、別の助け主でもあります。弟子たちはついに、イエス様の復活が示す真理を理解したのです。彼らにまことの喜びと平安が訪れました。

 そして、罪が赦され、神の子とされただけでなく、イエス様の救いの御業を受け継ぎ、罪の赦しを伝える福音の使者として遣わされる栄誉を与えられたのです。

しかし、12弟子の一人・トマスは、未だ復活のイエス様にお会いしていませんでした。「そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』(:25)と言うと」、ほかの弟子たちの言葉がしゃくにさわりました。「何で自分だけ仲間はずれなのだ。ユダのようにイエス様を裏切ったわけじゃない。ペトロだって、イエス様を知らないと、拒んだと言うじゃないか。それなのに、私だけ除け者か?」 彼は悔しく、癪にさわったとしてもしかたがありません。もし、私が同じ状況に立たされたら、私だって「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(:25)と言ったことでしょう。

八日たった次の日曜日、またもや、家の中に集まっていた弟子たちの所にイエス様が顕われました。「シャローム」 他の弟子たちは素直に「はい、平安です」と言えたでしょう。でも、トマスはそうではありませんでした。しかしイエス様は、名指しでトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」(:27)と言われました。もう一も二もありません。トマスは恥ずかしく、穴があったら入りたい思いだったでしょう。イエス様のわき腹に手を入れる必要なく、ただ「わたしの主、わたしの神よ」と絶句しました。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(:27)のイエス様のお言葉には、暗に「お前なら、見なくても信じると思っていたよ」との、いたわりの思いがあったでしょう。それと、どんなにしても、イエス様をもはや見ることの出来ない後代の人々、つまり私たちへの思いやりを感じます。

キリスト教の信仰は、信じることなしには与えられない恵みです。主イエスの十字架の死と復活は、弟子たちが肉眼の目で見て、証明している事実です。だから、十字架の死や復活は歴史的事実であり、信じる出来事ではありません。では何を信じるのでしょう。それは、「イエス様の十字架の死が、人間(私)の罪のための身代わりの裁きだった」とは、イエス様の言葉を信じる以外にないのです。信じ、感謝して受ける者には、神の子としての特権が与えられるのです。その保証が復活であります。

旧約の契約は、出エジプト記243「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います。」と行為を求める契約です。そして、「モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。』」(出エジプト記24:8)と動物の犠牲の血をもって契約を結ばれました。しかし、新約の契約は、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(:31)と、信じることだけが求められています。信じる者は、「イエス」の名のごとく「罪を赦され」永遠の命を受けるのです。イエス様はこのために、ご自身の血をもって契約を結んで下さいました。そして、復活をもって保証してくださったのです。

「信ずる者は 何人も 救わるるこそ 恵みなれ ハレルヤ主は 成し給えり 血潮の全き贖いを」新聖歌244

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