行事案内

  礼拝説教要約(2014年7月13日)

「造り主の姿に倣う」    聖書・コロサイ3:1〜17

 あなたは復活させられましたか? 復活させられたのか、させられていないのか、わからない人が多いようですね。それは困ったことです。では質問を変えてみましょう。「あなたは生まれましたか?」生まれたか、生まれないかわからない。という人はいないでしょう。これは、目に見える肉体的なことだから、誰でもはっきりと分かります。しかし、復活は目に見えない霊的なことだから、曖昧になってしまっているのでしょう。

 「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのだから、上にあるものを求めなさい。」(:1)と聖書は、はっきり「あなたがたは復活させられた」と言っています。聖書のお言葉をそのまま信じるのが、私たちの信仰です。信仰が曖昧になっているから、「上にあるものを求めなさい」と言われても本気になれないのです。「上」とは天国です。そこで求めるものとは何でしょう。「そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(12) 全てが満ち足りている天国で、あなたは何を求めますか。私は、イエス様に、そしてパウロ先生に、愛する先達たちにお会いしたいです。そこでしかこれらの愛する方々と、顔と顔とを合わせてお会いすることは出来ないのです。あなたは、神の権威を全て託されている、愛するイエス様にお会いしたいですか。そうであれば、この世的肉欲に死ぬことだと言っています。

 あなたは死にましたか?聖書は「あなたがたは死んだのであって」(3)と言います。ローマ書64「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命にいきるためです。」あなたがキリストを自分の主として受け入れ、洗礼を受けたなら、あなたはこの世に死んだ者だと言っています。未だ、復活のキリストのように、栄光の体に復活はしていませんが、新しい命が与えられ、復活させられているのです。キリストの再臨の時、私たちも栄光の体に復活するでしょう。そして、顔と顔とを合わせてお会いするということが現実となるのです。

 それまで、親鳥が雛をその御翼の陰に隠し守るように、私たちもキリストの贖いの翼の陰に隠され、守られているのです。これは、自分という存在が無くなるということではありません。全く神の目に隠されているのではなく、隠されているのは、私たちの罪の部分です。だから、この世的なものと共に歩いたり、支配されたりするな。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」(910)なさいと言っています。

 「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのです」(12)だから、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」(13)と言うパウロは、「わたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」(コロサイ124)ていると言うのです。苦しみが解決してから喜ぶのではありません。愛する者のために苦しめることは喜びなのです。親が子どものために何かをしてやれる時、嬉しいように、この人のためなら、苦しみもいとわない愛の対象者を持っていることは喜びなのです。

 口語訳聖書では14節を「愛はすべてを完全に結ぶ帯です」と訳しています。見返りを求めるような人の愛ではない。愛する者のために命をも惜しまなかったキリストの愛は、愛する者のために、忍び、許すことが出来るだけでなく、そうすることが喜びであると言うのです。そのように造り主キリストと同じ姿へと成長したい願うとき、キリストが私たちとくびきを共にして下さいます。キリストとの2人3脚であります。私が倒れるなら、キリストも倒れます。主と一緒ならどのような状態でもかまわないではありませんか。でも、復活のキリストは決して、倒れるお方ではありません。神の全ての権能を託されているのですから。だから、私たちが倒れそうになるとき、かえって強く引き上げて下さるでしょう。「私は復活しました」と信仰によって確信する者は、天で、栄光の体に復活し、主と顔と顔とを合わせ、お会いできるのです。その時、主の姿に似た者に変えられていることでしょう。

新着情報











Copyright(c)Okamura Church All Rights Reserved.