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   礼拝説教要約(2014年8月3日)

「平和を実現する人々」    聖書・マタイ福音書5:9

 シャローム! いつもの挨拶ですが、今日は特別な思いを持って呼びかけました。8月第1主日、つまり今日は平和聖日と呼ばれる礼拝だからです。69年前の815日、第2次世界大戦は日本の敗戦をもって幕を閉じました。でもそれから平和憲法の下、日本は戦争をすることなく歩んで来ました。そして世界の人々から、最も安全な秩序ある国として親しまれる国となりました。しかし今、その日本が、またもや戦争の出来る国へと変わろうとしています。だから、この平和聖日に「平和について」考えることはふさわしいことであると思うのです。

 シャロームとは、「戦争がない」ということではなく、人間の最高の幸福を作り出す、すべてのことを意味しています。つまり、心配事や不安がなくなるという、消極的なことではなく、全ての幸福を喜び楽しむ、そしてそのために行動するという積極的な事柄なのです。

 ある人が言いました。「平和を愛する人ではなく、平和を作り出す人が幸いなのだと。争いを起こさないという口実で、何もしない場合がある。しかしこれは、平和を愛すると言いつつ、実は、将来に対し、災いの種をまいているのである」と。何もしない、何も起こらないことが平和なのではない。問題を回避することではなく、問題に直面し、取り組み、克服してゆく。平和への道が苦闘の道でもそれを行うのが神の子である。「平和をつくり出す人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(9口語訳)

 イエス様は平和の人、柔和なお方であります。しかしそのイエス様が、縄の鞭を振り回し、売り買いの机をひっくり返したことがあります。それは、その売り買いの行為が、単なる商売と言うのではなく、神の名を利用して暴利をむさぼり、神殿に来る人々の心を、神から引き離していたからです。神との正しい関係がなければ、真の平和はありません。イエス様はいつもとは違う厳しい態度で、神から人々を遠ざけている人々に対処成されたのです。平和の神から離れて、平和をつくり出すことはできません。その平和の神から人々の心を離れさす行為は、決して許されるものではありません。真の神から離れた人の心は不安と恐れが満ち、疑心暗鬼となります。このような心が、今までも多くの戦争を生み出してきました。

だから先ず、心の中に平安を得ることが、戦いを生み出さぬ秘訣です。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ21416)イエス様は私たちを神に近づかせるために来られました。十字架の死を通して、私たちを神と和解させて下さいました。これによって、私たちは神と心を通わせ合うことの出来る、新しい人、いえ本来の神の子としての特権を回復していただいたのです。キリストこそ私たちの平和の根幹です。心のうちに平和を勝ち取った人は、人と人との間にも平和を作りだすことが出来るのです。

 核兵器や武器の均衡が、戦争の抑止力になると為政者たちは言います。しかしそれは偽りの平和です。人の心に不安と恐れがある限り、争いは地上からなくなることはありません。世界に類を見ない、現在の平和憲法が施行された直後に社会党初の首相となった片山哲氏はクリスチャンです。彼の秘書をした人が「片山哲先生の政治的遺言」として朝日新聞の「声」欄に投稿しています。「今や資本主義か社会主義かではない。これからの主たる課題は戦争か平和かである。平和な民主主義社会を維持発展させていくには、世界でも類を見ない崇高な理念に基づき構築されている平和憲法を、順守実行していくことが肝要である」と。キリストの十字架による平和を体験した、私たちの先輩の言葉として心に留めたい。そして、キリストの平和を体験した者として、地上の片隅からであっても、平和を実現する、神の子としての働きをして行きたいものです。

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