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  礼拝説教要約(2014年8月10日)

「数えてみよ 主の恵み」  聖書・ローマ8:2630

 本日は、私どもの教会の第65回創立記念日です。194987日に横浜福音医療宣教団・根岸橋教会として設立式を行いました。初代牧師・梅澤幸太郎先生が同年728日に着任し10日目の事でした。

 その辺の事情について、梅澤師が「主の語りたもうままに」に詳しく記しています。梅澤師は文章を書くのが苦手であったので、自分の証をテープにされました。それをご長男の信生牧師が編集され、出版されたのがこの著書です。私はこの記念礼拝のために、もう一回、この本を読み返してみました。

 梅澤師は深川聖公会で洗礼を受けキリスト者となりました。でも先生の住まいのすぐそばに、月島聖公会が出来、そこに転会しました。その教会の英国より来られた婦人宣教師・ミス・ヘンテが、梅澤師に大きな影響を与える人となりました。この宣教師の祈りとはからいで、岡村とく姉と結婚へと導かれました。また、献身への導きの最終決断も、ミス・ヘンテ師の贈られた聖句によるものでした。それだけでなく、「あなたが神学校に行くならば、あなたがた御夫妻で行ったらいい、それで二人の生活は卒業するまで全部、生活費も学校の費用もミス・ヘンテが引き受けるから『行ってきなさい』」と言われ、献身者生活を送ったのでした。

 しかし、このような導きが、何事もなくスムースに進んだのではありませんでした。信仰をやめようかと思うほどの葛藤もありました。しかし梅澤師は「私はクリスチャンですから、イエス様は私の主さまですから、私はイエス様と同じように、私の思いではなく、御心をなしたまえ」と、最終的には祈りました。これは梅澤師の主に全てを委ね、主と同じ思いを持って生きて行きたいとの信仰の現れでありました。梅澤師が行き詰まった時、もどるところは、イエス様のゲッセマネで祈られた祈りでした。

 月島や川崎で伝道者として奉仕していた梅澤師は、戦争のため栃木県の真岡に疎開し、農学校の指導主事をしながら伝道していました。そのような時、梅澤師が「私の魂のママさん」と呼んでいるミス・ヘンテ師が、戦後、再来日し品川で天幕を張って伝道していました。そのミス・ヘンテ師から「私はザレパテの寡婦になる用意があります。あなたはエリヤになる信仰があるか」と問われました。それは、全生活を保障するから、一緒に働く信仰があるかとの誘いでありました。決意して品川へ行く途中、主の導きでない時、いつも来る不安が梅澤師を襲いました。それで、もし、ミス・ヘンテに直接出会えなければ導きではないことを示され、それが現実となりました。しかしそれと同時に、横浜で伝道をしている倉持芳雄牧師を訪問することを示されました。そしてそこで、エルンスト・ラング宣教師との出会へと導かれたのです。そして、「横浜の根岸橋に、町内会館を借りて、初めは教会学校をやっていた…そこを教会にしよう。その根岸橋にあなたを招こうと、実はこのあいだから(倉持先生と)一緒に祈っていたんです。…すぐ来なさい。」と言われた。「願うところは、人間の願いや、人間の計画でなく神様のおぼしめしだけが成りますように」と祈った。するとヨハネ1516を示されて、不思議な動かすことの出来ないお声が心の中に響き、平安が与えられた。「私はおっしゃる通り、根岸橋に行きます」と決断をした。そのようにして横浜福音医療宣教団・根岸橋教会での伝道活動が始まったのでした。

 着任してまもなく奥様・とく姉の乳癌が発覚、2年以上はもたないでしょうとの診断通り195118日に主の許に召されました。この時も「私の思いではなく、父の御心をなしたまえ。」との祈りに対し、「父の賜う杯、これを飲まざらんや」との御声に心が定まったと記しています。4人の子どもを抱えての伝道生活後、1年たって富本清子姉との結婚へと導かれました。

 町内会館借用契約期限5年が来たときも、ラング師がメイヤー宣教師と、もう一人のEUBミッションの宣教師を根岸橋に連れて来られました。そして会堂建設のための土地購入の援助金をEUBミッションが出してくださることが決定したのでした。多くの試練を経つつ、梅澤師はいつも、主の御心を求めて祈りました。梅澤師はまさに、祈りの人でした。そのような梅澤師の、時には言葉にならない祈りをも聖霊が執り成して下さいました。梅澤師の信仰は「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」(ローマ828)そのままでありました。

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