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  礼拝説教要約(2014年8月17日)

「天使にまさる御子キリスト」 聖書・ヘブライ1:5〜8

 先週、教会へ来てくださった方から「天使は存在するのか?」と尋ねられました。皆さんだったら、どうお答えしますか? 考え込むことでは有りません。今日の聖書の箇所を読んでも、天使の存在は当然のこことして書いてあります。問題はその天使という存在を、どこに位置づけるかであります。

 「天使」という言葉は、キリスト教が入ってくるまで日本にはありませんでした。しかし、目には見えない、人間より力ある存在は信じていました。それが「霊」です。霊には悪霊もあれば善い霊もいます。幽霊、亡霊、死んだ人の霊=仏。仏は、本来は悟った者という意味ですが、日本では死者を連想することが多いです。これらは、ほのかで良く見えないが、それらしい存在として考えられています。そしてこれらの霊を拝むことで、自分を守る守護霊としているのです。このような日本の考え方はキリスト教が入ってきたとき、「天使」と結びつきました。人の考え方は案外同じようで、ヘブライ人も「守護天使」と祭り上げ、天使礼拝が行われていました。

 神の言葉・聖書を真剣に読むと、自分で解決できない罪のあることを示されます。それは神の聖さ、公正さを知るからです。私の場合は、聖書を読むようになって、他者との比較ではなく、イエス様と比べ(本当は比ぶべきもないのですが)、自分の傲慢、欲望、いい加減さを示されました。

 ヘブライ人はこの聖なる神と、罪人なる自分の間を取り結んでくれる存在として、天使の存在を考えました。創世記2812節に「ヤコブの梯子」の出来事があります。ヤコブが旅に出て、石を枕に宿った時、「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」「天使」とは遣わされた者の意で、天からの御使い、それも一つの人格を持った霊的な存在と考えられました。だから、神の御旨を私たちにもたらし、私たちの願いを神に伝え、執り成すと考えました。私たちのイメージに天使は羽を持っていて空を飛ぶ者です。それは「上の方にはセラフィムがいて、それぞれ6つの翼を持ち、2つをもって顔を覆い、2つをもって足を覆い、2つをもって飛び交っていた。」(イザヤ62)によるでしょう。顔を覆うのは聖なる神を直視出来ないから、足を覆うのは、恥ずべき所(罪・汚れ)を隠すため、そして2つの翼で、人と神との間を飛び交い、執り成す仲保者であります

 「遠くの親戚より、近くの他人」という諺がありますが、人は「遠くの神より、近くの天使」との自分勝手な誘惑を感じます。絶対的力を持っておられるが、聖なるがゆえに裁かれる怖い神より、身近で、私たちを慰め励まし、なんでも聞いてくれる天使。時には人間と同じく過ちを犯す、気兼ねする必要のない存在。天使を礼拝して、助けてもらい、利益を得ようとする。人間て、ずるいですよね。このような天使礼拝は、私たちの周りにある偶像礼拝と同じです。目に見えない自分より力ある諸霊を神として祭りあげ、助けてもらい、利益を得る。

 そのような天使を神のように拝み、また、神との間の仲保者にしているヘブライ人に対し、このヘブライ人の著者は、詩編27を引用して、「キリストこそ真の仲保者である」と言っています。詩編2編はキリストのメシア預言といわれる聖句です。それも神から使者としての使命を持って造られた天使とは全く異なり、造られたのではなく、「生まれた」と表現せざるをえない神と全く同質の存在です。教えられずして神の御旨を知っており、罪なく、神と同じ聖さと愛を持っておられるお方こそ、真の仲保者です。5節の後半はサムエル記下7:14に記されている、預言者ナタンがダビデに対してなした、王としての祝福と、王国の王座の永遠まで至る約束です。そのダビデの末裔として生まれるイエス様こそ真の仲保者です。神の創造秩序である天国は御子キリストによって完成するというのが「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」です。

 6節では「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と天使は礼拝される存在ではなく、御子キリストを礼拝せよと命じられています。御子こそ礼拝さるべきお方です。78節、そして天使は神の創造物ですから、人格を失い、自然の力・風、炎としての働きのみをすることさえあります。しかし御子こそは、永遠に変わることのない唯一の救い主にして王です。

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