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 礼拝説教要約(20141012日)

                   聖書・ヘブライ21018   「イエス・キリストが苦しまれた理由」 

 なぜイエス様は苦しみを受けて、死ななければならなかったのでしょう?イエス様の御苦しみは、人間を救うためだったと、聖書は一貫して言っています。しかし、「キリストが全能なる神であるならば、そんな苦しい思いをしなくても、救うことができたのではないか」と言う人たちがいます。ほんとにそうでしょうか?共に考えて見ましょう。

 10節には「多くの子らを栄光へと導くために」とあります。本来、人間は神の姿に似せて造られました。それは、神の栄光を反映して輝くはずだったということです。でもどうでしょう。人間に神の栄光の輝きなど見ることなどできません。暗闇が覆いつくしています。先日、皆既月食がありましたね。太陽の光を受けて輝いていた月。その輝きは太陽の光の反射です。しかし、月と太陽の間に地球が入って、月は輝けなくなりました。それと同じく、神と人との間を罪がふさいでしまいました。今や、人は栄光の冠を自力では得られません。そのような状態の人間を栄光に導くためには、罪を取り除かねばなりません。そのため「救いの創始者」であるイエス・キリストは、数々の苦しみを受け、「すべての人のために死んでくださったのです。」(9)

 「完全な者とされた」(10)とは、イエス様が不完全だったということではありません。聖書には「御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません」(Tヨハネ35)とか「罪となんのかかわりもない方」(Uコリント521)等、@イエス様は、他者の罪を身代わりに担いえるほどに、完全な潔さを持っていたことが記されています。そして、A父なる神の召しに従い、使命を完全に果たされたのです。その生き方は完全でした。更にB全く人と同じになられました。そうすることにより、人を罪へと導くこの世の支配者・サタンに対して、完全な勝利を収められました。でも、イエス様は人として罪を担い、神の裁きを受けられたのですから、それは苦しみの道以外の何ものでもなかったのです。

 「それが神にとってふさわしい」とは、イエス様の苦しい十字架の道こそ神の御旨であったということです。救いの対象者である私たちも、本来、聖なる神に源を置いているので、イエス様は私たちを「兄弟と呼んで」下さるのです。「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」(11)とはなんと光栄なことでしょう。

 イエス様は私たちを兄弟と呼んでくださるだけでなく、「神がわたしに与えてくださった子らがいます」(13)と、親の思いを持っています。それは助け守るためには、命をも惜しまない無私の愛であります。そして、イエス様に神が与えられた子とは、血と肉を持つ人間であります。キリストは人と真の一体関係を持つために、「イエス」という人となられたのです。肉と血を持つ人間は死ぬべき存在です。そしてサタンは、この「死」の恐れをもって、人間を支配しています。しかし、イエス・キリストはこの死を逆手にとって、人間を死の恐怖から、つまりサタンの支配から開放して下さったのです。私たちがイエス・キリストの十字架の死(苦しみ)に預かる時、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(ロ−マ155455)という讃美が起こるのです。死はもはや恐るべきものではなく、天国への門となるのです。罪の罰ではなく、罪からの開放となるのです。

 キリストは人間の代表として、贖いの業を成す大祭司として、苦しみをお受けになられたのです。そして自分に与えられた使命を完成されたのです。それが、私たち人間を罪と、死の恐怖から解放することだったのです。それを成し遂げただけでなく、「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(18)とあるように、今も、私たちの苦しみに共感し、苦しみを共に担って下さるのです。

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