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  礼拝説教要約(2014112日)

「永遠の命に導く」      聖書・ローマ書5:1221

 聖書は「一人の人によって罪が世に入り」(:12)と言っています。その一人とは、神によって創造された最初の人アダムであります。彼は神を信頼しきれず、戒めを破り、自分の知恵・能力で生きる道を選びました。この神に信頼しきれないことが罪の源なのです。それ以来、人間は、自分の知恵にたよって生きるようになりました。そして「罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(:12)と峻厳なみことばが続いています。すべての人が死ぬことになった。「それは当たり前ではないか。人は必ず死ぬでしょう」と、あなたは言うかもしれません。しかしこの死とは、肉体の死のことを言っているのではありません。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)とありますから、ここで言う死とは、霊魂の死のことであります。ですからこの著者は、「死」のことを言いたいのではなく、「命」について語ろうとしているのです。肉体が死んでそれで終わりではない。死んだ後、裁かれ、永遠の滅びへ霊魂が定められることを恐るべきだと。だから、霊魂が永遠の命へ行く道を知り求めなさいと言っているのです。

 そしてその命への道は、「恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」(:15)とあるように、父なる神とイエス・キリストの恵みの賜物だと言うのです。つまり、プレゼントであります。そして、この恵みのプレゼントの方が、罪を遥かに凌駕しているので、罪がどんなに多かろうとも、問題ありません。必ず、永遠の命に入ることができるのです。あなたにそのプレゼントを受け取って欲しいと願っているのです。

 この恵みはキリストの正しい行為によると聖書は言います。「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」(:18) イエス・キリストが十字架の死を、あえて自分の使命として受け取ったということです。それは、自分にとってどんなに不都合であろうとも、完全に神を信頼している者のみができることです。そして信頼は従順として現れるのです。アダムは神を信頼せず不従順になりました。しかし、「一人(キリスト)の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」(:19)

 神の側では、主イエス・キリストを通して、私たちを永遠の命に導く準備が整いました。後、残っているのは、私たち人間の側のなすべきことです。

その第1は悔い改めです。神様なんていらない。自分は自分の知恵と努力で生きて行けると、神に背を向けていた人間。それが滅びへの道であることを認めて、方向転換をすることが悔い改めです。神に顔を向け、神のみ旨を求めて歩むのです。

 第2は信仰です。でも、日本人の宗教心は信心です。「信心」とは「信じる心」です。つまり人間の側、自分の心に重点が置かれています。信じる心が大事なので、鰯の頭でも、ご利益があると信じれば、本当にご利益がある神(信じる対象)になるということです。これは人の思い込みで、迷信に陥る危険も大いにあります。ですから、日本では、そんな信心なんて必要ないと、自分を無心論者だと言う人も多くなるのです。「信仰」の重点は信じる人の側ではなく、「信じる対象」つまり神が真実で、信頼できるかが重要です。聖書は「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4:5)とあり、更に5:68には「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。…わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」とあります。このような神、このような愛のキリストだから、私は信頼できるし、信頼せずにはおれないのです。

 私たちに働きがなくても、不信心な者であるにもかかわらず、この愛の神を信じるなら、「わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(:21)とは真実です。

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