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     礼拝説教要約(2014119日)

「わたしは良い羊飼いである」 聖書・ヨハネ福音書101118

 家畜を飼ったことがありますか?子どもたちは当然のこととして、大人の人でもあまりないでしょうね。では、ペットはどうですか。これは飼ったことがある人も大勢ですね。あなたは家畜のため、ペットのために命を捨てられますか? 「はい、捨てられます」と言う人がいれば、その人は馬鹿・愚か者ですね。だって、家畜やペットは、飼い主の益のため飼っているのですから、命を捨てる必要などないのです。しかし、自分の子どものためならどうでしょう。きっと、子どもを助けるためなら、命など惜しくないと、捨てる覚悟の親は多いのではないでしょうか。この命をも惜しまない原因は何でしょう。それは、愛です。

 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ1513)とあります。このように語っている人は誰ですか?イエス様です。イエス様はそれだけでなく、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ544)」と言われ、そのとおりに生きられたお方です。このような生き方は真の愛がなければできないことです。

 今日の聖書の箇所にも「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11)と有ります。ここに記されている羊とは、家畜としての羊ではありません。羊のように迷い易い、人間の比喩です。ですから羊飼いとは牧会者である牧師のことです。

 わたしも牧師ですが、誰かから「あなたは羊のために命を捨てられますか?」と尋ねられたら、残念ながら「ハイ!捨てられます」とは言えません。そうでありたいとは願いますが、絶対にそうできると言えない弱い人間であることを知っています。でもそのような私でも、イエス様はペトロに言ったと同じように「わたしの羊を養いなさい」と言って下さっていると信じて、御用をさせていただいています。

 この10章には3つのタイプの羊飼いが描かれています。1番目は「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」(1034)に書いてあるのが、普通の羊飼いの姿です。一人ひとりを良く知っており、羊が迷わないように、先頭に立ち、外敵から羊を守りつつ進みます。門番なるイエス様に信頼されており、羊にも信頼されている羊飼い。この普通であることでさえ簡単なことではありません。2番目は「羊飼いではなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。…彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」(1213)に書かれた、金銭をもって雇われている羊飼いの姿です。自分の利益にならないなら、責任放棄して逃げ出してしまいます。これと対照的なのが第3番目の「良い羊飼い」の姿です。そしてイエス様は「わたしは羊のために命を捨てる。」(15)と言われます。そしてお言葉どおり、羊(罪に迷う人間)のために命を捨ててくださいました。そのような良い羊飼いはイエス様以外にはおりません。

 イエス様だけが、私たち人間の永遠の命を奪う悪魔から、命を守るために来られた良い羊飼いです。人間の命を守るためにご自身の命をさえ犠牲にしました。それが十字架での死です。この世の人は、イエス様は捕らえられ、十字架の上で殺されたと思っているかもしれません。しかし今日の聖書箇所には「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」(18)と書いてあります。そのとおりにイエス様は、再び命を受け復活されました。それは、イエス様が私たちの命をも、守って下さることのできる大牧者であることを、私たち人間にも分かるようにしてくださったのです。この自分の命をも惜しまないで、私たちを愛して下さるイエス様におすがりする時、私も真の愛を持てる者になれるのだと信じています。

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