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礼拝説教要約(20141123日)

「安息日を心に留め」   聖書・出エジプト記20:8〜11

 今年の標語聖句「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト208) これは神の民のスタートに示された聖句です。そして「初心に戻って」ということを示されていた私にとってふさわしい聖句でした。イスラエルの民もエジプトを脱出し、神の民として初心に戻る必要がありました。神の民にとって最も大事なことは、神を礼拝することです。彼らがエジプトを脱出したのは、単に奴隷としての生活が苦しかったからではありません。この世的物質生活なら、エジプトにいた方が豊かであったかもしれません。彼らは荒野へ旅立ち、紅海を渡る奇跡を体験した直後にでさえ「飲む水がない」「エジプトの国で…肉のたくさん入った鍋の前にすわり、パンを腹いっぱい食べられたのに」(出エジプト163)と、不平不満をモーセに述べました。彼らがエジプトを脱出する理由は、真の神を、自由に誠実に礼拝するためです。モーセはファラオに「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。」(51)

 礼拝の意義で最も大事なのは何でしょう。礼拝の中で、最も多くの時間をかけているのは説教です。でも説教を聞くために礼拝に出席するのではありません。良い話、面白い話しをする人なら、他に多くおります。テレビや本や新聞でも見聞きすることができます。礼拝の第一義は、天地の造り主なる神を崇めることです。近寄り難い怖い神ではなく、イエス・キリストを通して、私たちと近く交わる神の臨在を感じつつ礼拝することです。だから讃美、祈りが大事なのです。私たちの側からの礼拝行為が大事なのです。だから、安息日は、すべてのこの世の行為をやめて、神と交わるという行為を、先ず第一とするのです。

 でも、人間の側の行為の前に、1、神が私を選んでくださった。私が良い行為をしたとか、能力があるからではなく、一方的に、無代価で、神が私を選んでくださった。だから感謝せずにはおれないのです。2、これが神の愛です。神から愛されていることの自覚が礼拝へと導きます。私も神の愛を感ぜずにはおれません。伝道者になって40年、神学校時代を合わせて43年。日曜礼拝を休んだことがありません。私が努力したからではありません。私も学校の教諭であった5年間は、部活等を理由に礼拝を休みました。礼拝に出たくても、病気や避けがたい出来事で出席できないことも起こります。だから、神が守り、愛して下さっているから礼拝に出席できるのです。

 アブラハムも神の選びと愛を信じ、神の言葉に生きるという信仰生活に旅立ちました。神の選び、神の愛に対して、人間の側がなす行為、それが1、神の言葉に生きる決意です。そしてこれは決して難しいものではありません。今、祈祷会での聖書研究がサムエル記に入りました。少年サムエルはエリ先生に指導されて「主よ、お話ください。僕は聞いております。」(サムエル上39)と応えました。イエス様も「子供のようにならなければ、決して神の国に入ることはできない」(マタイ183)と言われたように、信仰生活においては、純真な心こそ大事なのです。心から主を讃美し、祈り(神とお話をし)、聖書のお言葉を受け入れることは、子供でもできることであり、この誠実な心が信仰者の生き方です。

 そしてこのような神との交わりが、神が望んで造られた人間の本来の姿です。一人ではつまりません。神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記218)とアダムに、交わりの対象として、家畜、獣や鳥を与えましたが、人の心は満たされませんでした。人は人との交わりを得て、はじめて心が満たされるのです。エバ(命)を神が連れてきた時「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(223)とアダムは喜びをあらわしました。神との交わりで愛を体験し、その愛をもって人と交わる時、人の心は満たされます。神が人に求められている行為、それは2、交わりです。

 だから、この年は、交わりを大事にして行こうと決意しました。神と交わり、神の民との交わりの最高の場が礼拝です。そして教会に来ている人との交わりはもちろんのこと、休んでいる人との交わりも願いました。そのためには訪問を大事にしようと思いましたが、これは十分にできませんでした。この反省に立って、次年を導かれたいと祈っています。

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