礼拝説教要約(2014年11月30日)
「神と出会うその時」 聖書・ヘブライ3:7〜19
私たちは神にいつ出会うのでしょうか? 「今日」であります。
本日の聖書箇所に3回「今日」という言葉が出ています。第1回目の「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、…」の7〜11節は、ヘブライの民の歴史における失敗と、神の宣告が記されております。ヘブライの民はモーセに導かれて、エジプトを脱出しました。物質文明のこの世、偶像崇拝の自分中心の行き方、人間に階級を作り、差別、蔑視を生む心。このような罪の世界から脱出したはずでした。しかし、彼らは目的であった安息を得ることが出来ませんでした。彼らは労苦したのみで、神の約束の地に入ることは出来なかったのです。何故でしょう?神が約束を破ったのでしょうか。そうではありません。彼らは神の声を聞いたのに、「神に反抗し…心をかたくなにし」(:8)たのです。そして神を試し、神の業を見たにもかかわらず「心が迷っており、わたし(神)の道を認めなかった」(:10)と、この世半分、神に従う思い半分と心が迷い、結局最終的には神に信頼しきれませんでした。その結果は「罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者」(:17)となってしまいました。エジプトというこの世を出たという過去の体験だけではだめなのです。
15節に「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」ともう一度繰り返しております。そして、これは更に4章7節にも出てまいりますが、ダビデが作った詩編95:7〜11の引用であることが分かります。神はある日を「今日」として、ヘブライの民に働きかけ、出会ってくださったのであります。このような出来事は何回でも繰り返しが効くことではなく、一回限りの、今ここで起こっている真剣な出会いなのであります。一回限りと言っても、ヘブライの民にとっては40年という、神の猶予、忍耐の時がありました。しかし結局、ヨシュアとカレブ以外は、信仰を持って神のチャンスの時を受け取ることができませんでした。彼らは約束の地に入れず、荒野で滅んでしまったのです。しかし神は真実な方で約束を破ることなく、次の世代のヘブライ人がヨルダン川を渡りました。これは信仰に立てなかった親たちが「異邦人の餌食になる」と言った幼子や女性たちでした。人間の目で見ると、歴史としては、ヘブライ人は約束の地に入ったのです。しかし、神が与えると約束した真の安息の地には入っていないのです。だから、次世代の者も霊的な信仰の試みを受ける必要がありました。でもカナンの地に入った人々も、祈祷会で士師記を学んだのでお分かりと思いますが、神に問うことをせず、「自分の目に正しいとすることを行い」神から離れました。ダビデはその歴史を振り返り、「私たちの祖先は神との出会いを無駄にしてしまった。だけど哀れみに富む神は、今一度、私たちに信仰に立つ決断の時を『今日』として与えてくださった。先祖を反面教師として、心をかたくなにすることなく、神に聞き従おう」と呼びかけているのが15節の「今日」です。
3回目の「今日」は13節です。12節に「兄弟たち」と呼びかけています。だからこれは既にキリストを知っているヘブライ人への呼びかけです。しかし、今聖書を読んでいる、新約の私たちへの呼びかけと受け取るべきでしょう。ヘブライ人の著者が言いたいのは、キリストを救い主と信じてスタートしたクリスチャンに、失敗の先例を挙げて、同じ轍を踏み、神から離れることがないようにということです。紅海を渡って出エジプトしても、ヨルダンを渡って約束の地に入っても、サタンの誘惑は続くのです。「信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう」(:12)可能性はいつでもあるのです。私も愛する人々に裏切られるという試練の中で、信仰が弱くなったことがあります。しかし一つのみ言葉が私を強くしてくれました。「わたしの仕える万軍の主は生きておられる。」(列王上18:15)という聖句です。生きておられる主は、全てをお見通しです。だから、他人がどうかではなく、自分が主の前に真実に生きているなら大丈夫だと分かったのです。「罪に惑わされてかたくなにならないように」(:13)する秘訣は、「『今日』という日に、日々励まし合う」(:13)ことです。信仰は独りでは消え易いのです。互いに励ましあうことが大事です。だから、問題があるなら、電話でも良い、信仰の友の所に走って行っても良い、2、3分でも祈ってもらうことは大事です。そして、この主が甦られた日に、教会に集うことこそ、最も大事で、最も大いなる励ましの日です。主と出会い、友と祈り励ましあうなら、最初の確信を最後まで持ち続けることが出来るでしょう。
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