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  礼拝説教要約(2014127日)

「信仰によって結びつく」   聖書・ヘブライ4:1〜11

 神様は私たち人間に対し、どのような願いを持っておられるのでしょう。イエス様が山上で説教したとされる初めに「…人々は、幸いである」(マタイ5)とあるように、人間が幸いであることです。ですから、神が導き入れたいのは、アブラハムに約束した地・カナンという土地ではなく、真の安息の地、真の平安であります。言い換えるなら、神が創造し、最初、人間に住まわせたエデンの園での生活であります。「わたしたちにも彼ら同様に、福音が告げ知らされているからです。」(2)とある「福音」とは第1にはイエス・キリストの十字架による罪の救いですが、その目的は、人がエデンの園の生活を回復するという福音です。

 福音が、信仰を持って真実に受け止められたかどうかは、「安息にあずかるという約束」が成就しているか否かということであります。しかし残念なことに過去のヘブライ人には「彼らには聞いた言葉は役立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったためです。」(2)とあります。約束を受けていたヘブライ人が、約束された祝福を受け取れなかったら、もうそれで終わりなのでしょうか。そうではありません。人間が不真実でも、神は真実ですから、祝福の約束は残っているのです。神が語られた言葉が、その人自身と結びつくなら、その人は全く新しい存在として変えられ、約束の祝福を受けるのです。

だから先ず、御言葉を聞き、神の言葉・聖書を学ぶことが大事です。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。…実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ101417)とあるとおりです。しかし今日は、聞いた言葉によって、新しい生き方が始まって行くことと結びつかなかったならば、最終的には、何の意味のないと、ヘブライ人を例に語っているのです。だから、「気をつけましょう。」(1)「努力しようではありませんか。」(11)と警告が記されているのです。ヘブライの人々は永遠の安息を約束されていましたが、神の言葉に従うことをしないで、自分たちの思い、願いを優先させました。それで、「神の安息」に入れなかったのです。

そして2節には「わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。」と、私たちはどうか?と問うているのです。あなたは、自分の思い、願いをかなえてもらうためにクリスチャンになりましたか?もちろんそうだと思います。でもその自分の思い願いが、宝くじが当たるようにとか、倒産しませんように。病気回復、合格、安産の願いであたり、家内安全、商売繁盛、交通安全祈願的な出来事の祝福祈願であるなら、偶像信仰と何も変わりがありません。これらが入信の動機であってはいけないというわけではありません。でもそこから入ったとしても、自分という人格の変化、つまり、いらいらと怒りっぽい、くよくよと思い悩む、人を許せない、傲慢、愛がない、決心してもすぐ崩れてしまうというような、人格の変化を願う動機へと導かれることが大事です。

先週も申し上げましたように、この世を象徴するエジプトを脱出して、ヨシュアと共にヨルダンを渡っても、自分の思いが優先の生き方が変わらなければ、安息は得られないのです。10節に「神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。」とあります。ヨシュア(ギリシャ語に訳せばイエス)と共にヨルダン川を渡った者(洗礼を受けた者)は、自分中心の考え、自分の幸福追求、自分の栄誉を求める生き方を休む、つまり、自分のための自分の業を終わりにするのです。

神の御言葉を聞き、それに信頼し従い、信仰によって神に結びつくことが大事なのです。イエス・キリストは神の栄光と、人々の幸いのため生きられました。人の救いのために、十字架に死ぬ時さえ、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と、全く信頼し、委ねられました。そのように、私たちも信仰によって、このキリストに結びつき、自分を委ねているなら、全き平安が心を満たすでしょう。

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