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  礼拝説教要約(20141228日)

「安息を求めなさい」   聖書・ヘブライ書4:11〜13

 2014年は標語聖句として「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト208)から、「心に留めよ」と題してスタートしました。

 そして、6月の終わりになり、今後しばらくの間、ヘブライ人への手紙から、時あるごとに学んで行くように示されました。2014年の最後の礼拝が、このヘブライ人の手紙からの「安息を求めなさい」となるとは、思いもしませんでした。やはり、多忙な、難しい時代だからこそ「安息を求める」ことが重要なのだと、主が言いたい年だったのだと思いながら、今日のメッセージの準備を致しました。

 「わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。」(11) 安息に預かることはもちろんですが、安息日を守ることも努力しなくては出来ない時代です。本来、人間は神と交わり、主を讃美し喜ぶように創造されています。しかし、だんだん神から心が離れ、この世のことを行うことが、本来の姿であると思うようになっている人もいます。そのため、忙しく仕事をしている人は偉いという考えも生まれてきます。だから、安息日を守らなくても「忙しかったもので!」と言えば、正当な理由かの様に思うわけです。それどころか、この世では、安息することは、怠けているかのように感じる人も多くなっているようです。でも本当にそうでしょうか。

 主の前に安息しないから、人間中心の考が益々、はびこってきます。聖書は「人が見て自ら正しいとする道でも、その終わりはついに死に至る道となるものがある。」(箴言1412口語訳)と言っています。滅びがのどを開けて待っています。人間の歴史、そして現代の環境がこのことを証明しています。神の前に安息し、自分を見つめ直す必要があるのです。神の前に静まって人間の本来の姿を取り戻さなければなりません。そうすれば、世にあって働く6日が正しく、充実してくるのです。

 人間本来の姿の1つは、イエス様が十字架で示してくださった愛です。人が忘れていたこの神の愛を受けない限り、人は、隣人を本当には愛せません。神の愛を体験した者は、その愛をもって、隣人をも愛することが出来ます。現代は何と、伴侶の間の破綻、親子の関係が壊れてしまっていることでしょう。これらが愛によって結ばれていないで、幸福があるでしょうか。神の愛を充分に受けた人は、神を愛し、他者を愛することが喜びとなります。

 神のもとで心を休ませないと、この世の仕事が忙しい、忙しいとなる。すると神は「だめだよ、休みなさい!」とストップをかけます。体調を崩し病気になることや心の不安定さ、それは神からの警告なのです。休むことが怠け者、堕落ではありません。神が「1日を、我が前に休め」と言われたことに従わないこと、つまり休まないことこそが、堕落であり、罪への道であることを自覚しなければなりません。「さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。」(11)と著者は心配しています。

 次の1213節は大変厳しい言葉です。必死に「休みなさい」と言っているのは、神の言葉はいい加減なものではないからです。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、間接と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることが出来るのです。」(12) 当時の生活の中で、いつも身につけておれる道具中、一番鋭利な物が両刃の剣でした。犠牲の動物を献げる時も、完全に切り分けることが出来ました。精神と霊、間接と骨髄を切り離すことは至難の業です。でもそのように切り分けきれない私たちの心の奥底を、主は見通しです。礼拝を守れないのか?それとも、守らないのか?神はご存知です。神は私たちの思いを丸裸にします。誰も言い逃れは出来ません。私は気が弱いので訪問し「出来れば、なるべく、日曜日の礼拝を守った方が良いですよ」と言う。すると主は「できればなのか!なるべくなのか?お前の信仰は本気じゃない」と私に語りかけます。「神が休んでまっているのだから、あなたも当然、休んで、神の招きに応えるべきじゃありませんか」と言うのが本当だろうと示されるのです。神は、あいまいさや妥協を許しません。

 私たちはこのような、全てを見通している神の前にいることを忘れてはなりません。でもこの神の前に出て、真実に心を注ぎ出すなら、全てを許し、慰め、力を注いで、この世へ送り出してくださるとは、何と幸いでしょう。

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