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  礼拝説教要約(2015年1月25日)

「弱さを思いやる大祭司」  聖書・ヘブライ書5:1〜10

 先週、天から降って来て、人間との接点を持ってくださった、偉大な真の大祭司イエスについて語りました。イエス様が人間として神との仲介者になるためには大祭司としての務めが必要だったのです。その務めについて本日の5章は記してあります。

 「大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。」(1) 先ず1、祭司は人間でなければなりません。神と人との間に立って執り成しをする働きができるのは、天使ではありません。まして、死んだ人間や人間の造った偶像(仏像や地蔵)等でもありません。そして2、神から任命されなければなりません。ヘブライの最初の祭司はアロンでした。アロンとその子孫が大祭司となることも、神によって定められたことです。人間は罪がありますから、許しなく神の前に出ることは出来ないのです。神の召しによってのみ、人は祭司となるのです。3、神の前に出て犠牲の献げ物をするのが大祭司の役目です。そして動物犠牲も神の定めたものです。「罪の支払う報酬は死です」(ローマ623)とあります。でも、アダムとエバが神に罪を犯した時、神は人間に死を与える代わりに、動物を犠牲にして皮の衣を作って着せ、エデンの園から追放しました。この時以来、動物犠牲を神に捧げることが、命を贖われた神の恵みへの信仰告白となったのです。

 「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。」(2) 大祭司とて人間ですから、もちろん、弱さ・罪を持っています。しかし、弱さがあるから駄目というのではないのです。弱さには功罪があります。「罪」は死をもって償わなければならないということです。ですから、大祭司も自分のために贖いの供え物をしなければならないのです。でも、「功」は、自らも体験したことによって、他者の弱さ、迷い、無知を思いやり、痛みや苦しみ、悲しみを共感出来る者となれるのです。それゆえ、他者に代わって贖いの供え物を献げますが、不完全な祭司による、不完全な犠牲(動物の命)ですから、神との約束により、毎年更新されなければならないのです。

 では真の大祭司イエス様はどうだったでしょう。1、大祭司になるために、人間となられました。2、全く罪がなく、律法に秀でていても、イエス様も他の祭司と同じく、神により任命されたのです。

 父ヨセフが早く死んだため、イエス様は一家の長としての私的働きを30歳まで果たされました。しかし、使命として与えられている救い主の自覚は、12歳のころ既にあったことが、ルカ福音書2章の神殿での会話でわかります。そして、ヨルダン川の受洗によって「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」(5)という神の言葉によって、真の大祭司(救い主)として公的働きをスタートしたのです。

 アロンに起源をもつヘブライの祭司と違って、イエス様の祭司職はメルキゼデクと同じような永遠の祭司でした。メルキゼデクの祭司職については7章に記されています。それは詩編110篇に預言されている救い主としての祭司であります。メルキゼデクとは義の王の意味であり、彼はサレム・平和の王であり、地上的起源を持たず、永遠(神)に起源を持つ祭司であります。

 しかし、イエス様はあくまでも人として来られました。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ。涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ…キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(78) イエス様は人の味わう苦しみを短期間に、皆、味わう必要がありました。その集約が、バプテスマ後の荒野での誘惑と十字架の道であります。種々の誘惑を受けるだけでなく、裏切られ、唾され、鞭打たれ、侮辱され、殴られることも甘んじて請けました。でもそれは人の弱さを知るため必要だったのです。そしてついに、人間の弱さ・罪を全部背負って、父なる神にまで見捨てられたのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ぶイエス様の悲痛な、激しい叫び声が、人間の味わう弱さを、完全に体験したことを表しています。だからこそ、すべての人々の救いの源となり得るのです。今もイエス・キリストはあなたの弱さを完全に思いやることが出来るのです。

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