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      礼拝説教要約(201545日)

「心の目を開いて」      聖書・ルカ福音者241335

 イースターおめでとうございます。
 今日の聖書箇所に記されている、二人のイエス様の弟子たちは、失望落胆し、都で暮らす意味を失い、故郷への帰途に有ります。

 皆さんは、失望落胆したことがありますか? 私はあります。東京藝術大学の受験に失敗した時です。受験のため上京し、上の姉に世話になりました。工務店を営んでいた、荒っぽいが気の良い義兄が、私のピアノの練習のために探し回り、楽器店で練習できるよう取り計らってくれました。でも、ピアノの試験になる前に、専攻の声楽の方で失敗してしまいました。合格できると信じて臨んでいただけに、風邪のためとはいえ、ショックが大きかったです。「音楽、あきらめたわけじゃないでしょう。内の人がせっかく、ピアノの練習場を見つけて、お金まで払ってあるのだから、練習に行ったら!」と姉に言われても、全くそんな気分にならず、ゴロゴロしていたことを思い出します。

 「わたしたちは、あの方こそイスラエルを開放してくださると望みをかけていました。」(21)とあるように、イエス様に望みをかけていたが、イエス様の死で、完全に望みを絶たれた、この弟子たちの落ち込みよう。私には良くわかります。でも彼らは故郷への帰り道、「話し合い論じ合って」いました。本来なら、論じる気力もないはずです。しかし、状況は少し違いました。

イエス様が十字架に架けられて3日目、(私たちも三日前の金曜日に、イエス様の十字架の死を偲んで、礼拝をしました)だから、この聖書の出来事は、日曜日、今日の出来事です。その論じ合う興奮の原因は、「仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。…遺体を見つけずに…天使たちが現われ、『イエスは生きておられる』と告げた」(2223)ことです。

彼らは、復活のイエス様と相対して話していても、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」(16) イエス様はこれを「心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者」(25)と言われました。目に見えることに信頼を置く人、自分の感情に頼る人は心が鈍くなるのです。洗礼を受けたら、イエス様が見えたり、特別なことが起こるのではないか!と感情、感覚に頼り、それが無いからといって、受洗後ほどなく教会に来なくなる人がおります。心が鈍くなっているからです。

信仰者は、感情ではなく、神の言葉・聖書に信頼を置きます。だからイエス様はこの弟子たちに「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」(27)のです。パンを裂くことは、聖晩餐の時を先ず連想します。でもこの弟子たちは12弟子ではありませんから、イエス様が、野原でパンを裂き祝福して分けた時の奇跡を見て、弟子となった人たちでしょう。イエス様が食事の席でパンを裂いて渡してくださった時、彼らは「イエス様だ!」とハッと気づきました。彼らの心に聖書の御言葉への信仰が回復していたからです。

でもここには不思議なことが記されています。「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(31)というのです。「二人の目が開け、その姿が良く見えた」のではないのです。心の目が開かれれば、もはや、肉眼の目には、イエス様が見える必要はないのです。いえ、「栄光に入られたイエス様を、肉眼の目では見れない」と言った方が良いでしょう。目に見えるものはいつか消えてゆきます。しかし、目に見えないものこそ、永遠に続くのです。心の目が開けて、イエス様を見た者は、イエス様を見失うことはありません。この栄光の主が、いつでも、どこでも共にいてくださることを、確信できるからです。「わたしたちの心は燃えていたではないか。」(32)これこそ、彼らの心の目が開かれ、永遠に続く希望を与えられた証拠です。彼らはもはや失望し、気力の萎えた人ではなく、「時を移さず」行動せずにはおれない人に変えられていました。

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