行事案内

  礼拝説教要約(2015年4月12日)

「わたしは主を見ました」  聖書・ヨハネ福音者20:1〜18

 今日の説教題は「わたしは主を見ました」ですが、あなたは主イエス様を見ましたか?答えるのに戸惑ってしまいますよね。「見ていません」と言われる方は、肉眼の目でみていないということでしょう。「見ました」と言われる方は、「心の目でイエス様を見ました」ということであろうと思います。

 先週は、「心の目が開かれれば、もはや、肉眼の目にはイエス様が見える必要がない」と申しました。そして事実、失望落胆し、故郷への帰途にあった弟子たちは、「(心の)目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(ルカ2431)と復活の主を見ることは出来ませんでした。でも、今日の聖書箇所では、マグダラのマリアが復活のイエス様に出会い、見ることが出来たことが記されています。先週の箇所と矛盾しているように思われますが、福音書記者が伝えようとしているポイントが違うのです。先週は「心の目で見ることの大事さ」にポイントがあり、本日は「どのような者が、復活の主にお会いできるか」にポイントが置かれています。

 復活の主を最初に見、お会いしたのはマグダラのマリアでした。彼女は弟子たちのお世話係をするかのように、イエス様一行と旅をしていたのです。「町や村を巡って旅を続けられた。…何人かの婦人たち、すなわち、7つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカ812)とあります。かつての彼女は、尋常でない行動をし、「悪霊がついている」と人に嫌われていました。彼女はイエス様から悪霊を追い出してもらい、人間らしい扱いを受けました。そして、自分の居場所を見つけたのです。それは自分の生きる使命を見出したとも言えるでしょう。

 イエス様が死んで葬られて3日目の朝早く、何人かの女性たちとマグダラのマリアも墓へ行きました。彼女が婦人たちの中では一番若かったのでしょうか、走って行って「主が墓から取り去られました」とペトロとヨハネに告げました。この弟子たちも、婦人達もイエス様のご遺体がないことを確認して、仕方なく帰って行きました。しかし、マリアはそこを去り難く、一人残って泣いていました。3日も経て、イエス様が死んだ時の涙は、もう枯れていたでしょう。しかし、遺体さえもない。どうして良いか、やるせない気持ちに、またもや涙が溢れてきたのです。

 先日テレビのニュースで、4年前の大地震と原発事故の放射能のため、墓は倒れ荒れ果てたまま、そして、やっと海辺のゴミの中を、遺体を捜そうとしている人々が映し出されました。そのやるせなさが、このマグダラのマリアと重なりました。

 イエス様のご遺体が置かれていた墓の中に現れた天使も、復活されたイエス様も「婦人よ、なぜ泣いているのか。」(1315)と問いました。マリアは未だ、イエス様が復活されたことを知らず、園丁と勘違いしました。彼女は「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」(15)と言いました。でも復活のイエス様に「マリア」と呼ばれて、マリアはハッと気づきました。先週の言葉で言うなら、心の目が開かれたのです。イエス様はマリアに対しては顕現なさったのです。イエス様の顕現は一様ではありません。今日の、マリアに対しては「いつも、主のもとに留まる者の幸い」を示しています。

 マグダラのマリアは、イエス様が十字架に付けられ、男の弟子たちが逃げた時も「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」(ヨハネ1925)、埋葬の時も「新しい墓の中に納め…マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り」(マタイ276061)、どんな時でも主のもとから離れませんでした。

 自分に都合の良い時、助けの必要な時だけ、イエス様のそばに居たわけではありません。いつも共に居たのです。それ故、復活の瞬間もそこに居合わせ、最初にお会いする者となりました。

 復活のイエス様が、天にお帰りになった後は、肉眼の目で見ることは出来ません。しかし、イエス様は天に帰られる前「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ2820)と言われました。主の御言葉を信じ、いつも主に祈る人は、主が共に居られます。そして、その主と共にいる人は確信をもって「私は主を見ました」と言えるのです。

新着情報











Copyright(c)Okamura Church All Rights Reserved.