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  礼拝説教要約(2015年4月19日)

「渇くことのない水」    聖書・ヨハネ福音者4:7~29

 喉の渇きを覚えたことがありますか?水の豊かな日本では、喉が渇いて死にそう、などということは、日常の中ではありませんよね。

 私たちの少年時代には、運動をしている時、喉が渇いても「水は飲むな」と言われていました。根性を鍛えるという意味が強かったのでしょう。しかし今は、こまめに、良く飲んだ方が良いと言われます。私もテニスをする時は、水筒持参で行き、水分補給を良くします。通常でも私ぐらいの体重の者は、1日3ℓぐらい、水分を摂らないといけないのだそうです。小水や糞尿としてだけでなく、呼吸や皮膚からも水分は発散しています。それが3ℓぐらいになるのだそうです。体を動かして汗をかけばなおさらです。飲まなければ渇くのです。食事は2,3日食べなくても死ぬことはありませんが(世界には貧しく、飢餓状態にある人々も多く、今日1日食べなければ餓死するという人もおります)、水分は摂らなければ2,3日で命にかかわります。

 でも今日の話は、この飲み水のことではありません。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(1314)とあります。本来、人の内で泉となって湧き出る水などありません。

でも、人に渇きを感じさせるのは身体だけではありません。「心の渇き」という言葉があります。詩編1篇「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。」(23)や、23篇「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」(23)は、心を潤す水のことを言っています。

 「空が哭いている、煤け汚れて、人はやさしさを、どこに棄ててきたの、だけど私は好きよこの町が、肩を寄せ合える、あなた…あなたが居る」東京砂漠という歌の1節です。人がどんなに多く居ても、優しさのなくなった都会。そこは心の砂漠です。でも肩を寄せ合える愛があるから、好きよと言える。「ビルの谷間の川は流れない、人の波だけが黒く流れて行く、あなた、あなたに巡り合うまでは、そうよ、この町を逃げて行きたかった、あなたの愛に、ああ、つかまりながら幸せなのよ、この東京砂漠」 人はいっぱいいるのに、心が渇いている、あなたの愛に出会うまではと歌っています。愛によって心の渇きは癒え、潤うのです。

 しかし、人の心は移ろいます。変わらぬ愛に出会えば幸いですが、それでもいつか別れは来ます。人は肉体をもった有限なものですから、死が人を別つのです。でも人は、魂の渇きを癒そうとします。でもそんな癒しを与えるものにはなかなか出会えません。そしてつかの間の、偽り物に救いを求めるのです。お酒にたばこ、薬物、ギャンブル。それらの虜となり依存症となります。でもこれらは、渇きを止めることは出来ません。かえって悪化させてしまうのです。

 魂を癒す水(真の愛)に出会い、全く人生が変わった女性の実例が記されています。それが、サマリアの女性に起こった出来事です。

 ユダヤ人はサマリア人を蔑視していました。戦争に敗れ、アッシリアの植民地となり、異邦人と結婚してしまった北イスラエルの人々。彼らをユダの人々は「選民としての純潔を失った、汚れた民族。サマリア人はもうイスラエル人ではない」と蔑んだのです。

 しかしイエス様は、あえてサマリアの地に行きました。それは、サマリア人同志の中でも「汚れた女」として嫌われている女性を生まれ変わらせるためでした。彼女をして、サマリア人を救う、神の愛を示すためでした。

 イエス様がこの女性に話しかけることによって「ユダヤ人のあなたが」と、この女性は驚きを隠しきれませんでした。「同じ空気を吸うだけでも汚れる」と思っているはずの人が、「水を飲ませてください」などとは、ありえないことだからです。しかし「あなたに生きた水を与えたことであろう」(10)と聞いた時、この女性はイエス様をユダヤ人としてではなく、「主よ」と呼びました。尊敬の念を持って「ご主人様」と少し心を開いたのです。更に、自分の男性遍歴、みだらだった生き方を、全てこのお方は知っていると思った時、「主よ、あなたは預言者とお見受けします。」(19)と、自分を救ってくれるかもしれない、愛なる神の人として受け入れたのです。このサマリアの女性は自分を汚れた罪人と卑下していましたが、それでも「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。」(25)と救いを待ち望んでいたのです。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」(26)とイエス様が言われた時、この女性は、素直にイエス様をキリストとして受け入れました。その時、彼女の心の渇きは消えたのです。不安も恐れも、自分は駄目な人間との思いも消えました。だからこそ町に行き、人々に「さあ、見に来てください…この方がメシアかもしれません。」(29)と、イエス様を救い主キリストとして伝えたのです。イエス様は今でも「私が、あなたの魂の渇きを癒す水だよ!私を受け入れなさい。」と招いておられます。

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