行事案内

   礼拝説教要約(2015年5月3日)

「わたしもあなたを罰しない」 聖書・ヨハネ福音書8:1~11

 「律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て」(3)と、姦淫の現場で捕らえられた女が本日の話題の中心です。現代ではこのような女性を、罪人として捕らえること自体が難解なことです。不倫を知られても、「恋愛は自由でしょう。あなたに迷惑等かけていないのだから、とやかく言われる筋合いではない!」と開き直られてしまうでしょう。未成年との援助交際とか、強姦であれば、現代でも犯罪としてニュースになりますが、罪に問われるのは、多くの場合、男性のようですね。

 「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」とイエス様に尋ねました。この律法学者、ファリサイ人の質問にどう答えれば、訴えの口実を与えないですむだろうかと、考えていると、平重盛の苦衷を思い出しました。「後白河法皇と父・平清盛の確執の板ばさみの仲で『忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず』」との心境です。このような例話を出しても戦前の教育を受けた人なら「そうだ!」と解っても、現代の若者たちにはかえって、解り難いかもしれません。私もだいぶ古い人間になってしまいました。

 律法では、姦通は死にあたる罪であることは明白です。本来、問う必要もないことです。しかし、イエス様の今までの言動は「愛」です。だから、このような状況でも「愛をもって赦しなさい」と言うのですかと問うているのです。律法を守ろうとすれば、イエス様の生き様である愛を損なう。愛を全うしようとすれば律法を破る。これは決して両立しない。だから「イエス様、あなたの言動は、口先だけの、まやかしなのだ!」と律法学者やファリサイ人は言いたいのです。彼らは、律法と愛とは相反するもののような考え、イエス様を窮地に追い込んだと、ほくそ笑んだことでしょう。

 「イエスはかがみ込み」黙しておられました。返答に窮してしまったのでしょうか。そうではありません。イエス様を試し訴える口実を得るため捕らえられ、人前に恥をさらしている女性がかわいそうなのです。それだけでなく、そんな事をしてまで、イエス様を陥れようとする人々も、哀れな人たちだと悲しくなり、黙しておられるのです。

 律法学者、ファリサイ人はイエス様への対抗心と嫉妬ゆえの謀略に、心を奪われ、心が鈍くなっているのです。本来、律法と愛は相反するものではありません。律法の真髄は「愛」であります。イエス様に好意的な律法学者は「あらゆる掟のうちで、どれが一番でしょうか。」と問い、イエス様の答えを素直に受け止め、「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」(マルコ122833)と復唱しています。イエス様に正しく接すれば、正しく導かれるのです。

 彼らがしつこく問い続けるのに対してイエス様は、一言「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(7)と言われました。この言葉は人々を聖なる神の前に引っ張り出したのです。

50年前の私も「あの人は悪い…、この人は何であんなくだらないことをするのだろう」と、心の中で他者を批判していました。そして、他者を裁いている自分にさえ気づいていなかったのです。私は聖書の言葉で、イエス様の前に立たされ、自分の罪を認識ました。それと同様、ユダヤの指導者たちを、イエス様の言葉は神の前に立たせたのです。その時、彼らは罪を認識し、年長者から始めて、一人またひとりとその場を離れて行きました。残ったのは、罪の女とイエス様だけでした。

 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(11)とイエス様は言われました。「あなたは罪がない」と言ったのではなく、また「罪に定めることができない」のでもありません。イエス様こそ、地上にあって、罪に定め得る唯一の聖なるお方です。だからこそ、他者の罪(この女性の罪)を担い、神の前に身代わりの裁きを受けてくださることも出来るのです。イエス様の「わたしもあなたを罰しない(口語訳)」には、十字架での贖いが背景にあります。あなたのためにもイエス様は同じように言われます。「わたしはあなたを罰しない」と。

新着情報











Copyright(c)Okamura Church All Rights Reserved.