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   礼拝説教要約(2015712日)

「ひとり子をささげる」    聖書・創世記22118

 薪を背負った少年が歩いています。誰でしょう? 日本人で、今日の聖書箇所を読んだことのない人の答えは「二宮金次郎」でしょう。でも、あなたの応えは「イサク」でしょうね。

 アブラハムは「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(2)との主の命により、ベエル・シェバから、ここモリヤの山に来ました。ここは後の時代、ダビデに主が顕現したので、ダビデが主に焼き尽くすささげ物を献げる祭壇を築いた所です。そして、ソロモンがそこを祭儀の中心とするために神殿を建てました。「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデに御自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった。」(歴代誌下31)

 アブラハムは主の命に直ちに応答しています。そこにはアブラハムの、迷いのない主への信頼と服従を見ることが出来ます。しかし、この旅程は1日路ほどですが、3日もかかったことに、アブラハムの苦悩を感じます。誰だって、自分の最愛の息子を全焼の犠牲として、何の迷い、苦しみもなく献げる者はいません。しかし、現実にはどの国でも、日本でも、自分の願いを聞いてもらうために、自分の最も大事なものを捧げて来たという歴史を持っています。では、聖書の神もそのような人身御供を求める神なのでしょうか? そうではありません。「彼らはバアルのために聖なる高台を築き、息子たちを火で焼き、焼き尽くす献げ物としてバアルにささげた。わたしはこのようなことを命じもせず、語りもせず心に思い浮かべもしなかった。」(エレミヤ書195)とあります。これは主なる神が最も嫌われることで、イスラエルの律法でも禁止されていることです。「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。」(レビ1821)と主は言われています。このような律法は、未だアブラハムの時代には無かったのですが、神のお心は不変です。

 アブラハムは主の真意を祈り求めつつ歩を進めました。主の命令変更のあることを期待もしたでしょう。イエス様がこの時から2000年も後、「もし、できることなら、この杯を、わたしから過ぎ去らせてください。しかしわたしの願いどおりではなく、御心のままに」とゲッセマネで祈ったように、アブラハムも何回も主の真の御旨を祈り求めたことでしょう。このイサクをささげるという行為は、この世の人々のように、自分の欲望を満たす願いから起こったものではありません。アブラハムの願いは、地位、名誉、この世の富ではなく、イサクの成長であり、彼が使命を受け継ぐことでした。既に見たとおり、イサクはアブラハム、100歳にして与えられた奇跡の子です。また、このイサクこそ、神の契約を受け継ぐ約束の子であることは、神御自身が保障しているのです。このイサク無しでは、神の契約は決して成立しないのです。アブラハムにとってイサクが全てであります。また、神にとっても「わたしは彼女(サラ)を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」(創世記1716)の約束は、イサクによって実現するのです。ですから、アブラハムの行き着いた結論は「信仰によって、アブラハムは、…独り子を献げようとしたのです。この独り子については『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいました。」(ヘブライ111719)でした。アブラハムはこのような苦悩の末に、主の全能と愛に全き信頼を置いて、愛する独り子を献げたのです。もちろん主は「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(12)とアブラハムの信仰を受け止め、身代わりの献げ物を与えられました。イサクもまた、苦悩しつつも、父と同じ思いを持ち、従順に従いました。

 これは、新約における、父なる神と子なるイエス・キリストの姿をそのまま予表しています。旧約において、罪ある人間の身代わりの献げ物は動物であります。でも、新約における犠牲の献げ物は、神の独り子イエス様です。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ410)。また「キリストは、神の身分でありながら…人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ268)とあるとおりです。

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