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  礼拝説教要約(201589日)

「打ち砕かれた自我」    聖書・創世記322331

 先週から引き続き、平和への願いのニュースが流れています。そして今日は、長崎に原爆が投下された日です。日本最大級の教会・カトリック浦上天主堂はこの原爆により破壊されました。原爆の悲惨さを残しつつ、幸い、再建築されています。そこに程近い、原爆落下中心地公園北側、小高い丘には、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めて造られた平和公園があります。私もその公園に、大学生の時、行ったことがあります。そこに、原爆犠牲者の鎮魂と永遠の平和を願って造られた平和記念像がありました。その像の、上に指さした右手は原爆の脅威を、水平にのばした左手は平和を示し、軽く閉じた瞼は、戦争犠牲者の冥福を祈っているのだそうです。

 先週、争いを避けるための「ヤコブの旅立ち」を黙想しました。彼はべテルで神臨在の体験をしました。それにより、「全能にして愛なる神が、共にいます」との信仰を与えられました。このことにより、神に信頼し、平安をもってハランへと向かえたのです。

 ハランでの20年。2人の妻と、2人の側女、11人の男子と1人の女子とを与えられました。幸いな人生であったように見えます。また、神の祝福を受ける者として、それにふさわしく整えられる旅だったはずですが、生来の性格はなかなか変えられませんでした。そのため、伯父ラバンとその子たちとの確執にも苦しめられました。でもついに、「あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」(創世記2815)の約束の日が来たのです。主は約束通り「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」と言われました。彼はついに、故郷を目指して出発しました。

 しかし、故郷には大きな問題が待っているのです。ヤコブを殺そうとまで怒った兄・エサウが居ります。20年経ったとはいえ、この間、音信不通でした。その上、自分を愛してくれた母・リベカは、死んでもう居ません。エサウは大きく、強い家族となり、父・イサクから独立してセイル地方に移り住んでいました。その兄のもとに、ご機嫌伺いに使いの者を遣わしました。その使いの者の報告は「兄上様の方でも、あなたを迎えるため、400人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます。」(327)というものでした。ヤコブは争いになるのかと非常に恐れ、思い悩みました。ヤコブは祈らざるを得ませんでした。「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。」(1112) ヤコブは確かに霊的に成長していることが分かります。自分の足りなさを自覚し、恐れていることを隠さず、神への信頼と祝福くださる主への感謝がこの祈りには現れています。そして、恐れながらも逃げるのではなく、神に信頼して前進する者になっています。

 兄との和解を願い、あらゆる準備をした後、ヤコブは更に、徹夜して祈りました。「お前の名は何というのか」と尋ねる主に「ヤコブです」と答えたのは、単に名前を告げたのではありません。「名は体を表わす」と言われているように、「お前はいかなる者か」と尋ねられたのです。それに対しヤコブは「私は押し退ける者」自分の性質の欠点は未だ残っていることを言い表したのです。これこそヤコブの霊的成長の証しです。この祈りの中で、「押し退ける者」としてのヤコブの自我は完全に打ち砕かれたのです。腿の関節をはずされたヤコブは、主にしがみつかずには立っておれません。彼は主無しには何もできない、主に全く自分を委ねる者となったのです。イエス様も「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ155)と言われました。自我を告白したヤコブに、主は「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる」(29)と言ってくださいました。「イスラエル」とは、「神が支配したもう」と言う意味です。神に全てを委ね、神がその人の心の王座にある人は「神の子」です。

これはパウロが「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ220)と告白したのと同じです。だから、ある人がイスラエルを「神の皇太子」と表現しました。私たちも自我を砕かれ、主に明け渡し、新しいイスラエル・神の子となりたいものです。

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