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     礼拝説教要約(2015830日)

「無限の赦し」        聖書・マタイ福音書182135

 この数週間、何が私たちにとって、最高の幸いであるかを見てきました。そして、神との交わりこそ、人が最も活き活き、と自分らしく生きられることであると分かりました。日用の糧は主に委ね、与えられている賜物を最善に発揮し、互いに仕え合う。周りの人が喜ぶことを行えることが、自分の喜びとなる。なんと素晴らしいことでしょう。イエス様が「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ712)と言われた聖書の言葉を生きていることになります。

 しかし、そういう生き方を人間は見失い、争い、滅ぼし合ってきました。これはエデンの園を追い出された人の間に、初めから起こっていました。カインは妬みのゆえに、神の祝福を得た弟アベルを殺しました。その子孫レメクは「わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が7倍なら、レメクのためには77倍。」(創世記42324)と言いました。これがこの世の姿です。だからこそ世界最初のハムラビ法典には「目には目を、歯に歯を」とあるのです。日本で復讐を是認しているように受け取られている言葉も、実は「傷つけられた位で、恨みを増幅し、殺してはなりません。目には目、歯には歯で止めなさい」と争いの拡大を止め、復讐の連鎖を断ち切る法律なのです。

 ある人が言いました。「人が私たちに対して罪を犯したとき、私たちはその人に復讐する権利を持ったのではなく、赦す権威を持ったのです。被害者は相手の同意なく、一方的に赦すことができます。」と。神が人間に対して、イエス・キリストを通してなされたのが、この「一方的に赦す」ことでした。赦しは聖書の中心的真理であり、キリスト者の生き方であります。

 ペトロは心に据えかねたことがあったのでしょう。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」(21)と言いました。これは一般的質問ではありません。「わたしに対し」とありますから、ペテロに起こっている現実です。でもペトロはさすが、イエス様の弟子です。ユダヤ人は心の広い寛容な人なら、3回までは許すべきだと思っていました。それに対し、倍の6回どころか更におまけして、7回まで許すべきですか?と問うたのです。少し誇らしい思いで言ったであろうペトロに対し、主イエス様は「7回どころか770倍までも赦しなさい。」(22)と言われました。これは「無限に赦しなさい」ということです。「そんなことは無理!」と不服顔のペトロに、イエス様は“天国の法則”を語られました。

 1万タラントン借金している家来が、決済のために、王の前に来ました。1日の賃金が1デナリオンでしたから、1デナリオンを1万円とするなら、1万タラントンは現代では6千億円です。日本経済新聞社が日本人一人の生涯賃金を試算し、2億5千万円としました。これから考えて、普通の人では到底支払えない額です。しかし王は、家来を憐れみに思い、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやったのです。でもなぜこの家来はこんなにも多額の借金をしてしまったのでしょう。実はこれは、神と人間との関係を喩えで話しているのです。

 先週は、「人の命は全世界より価値がある」とイエス様は語られました。私は生涯通して2億5千万円稼ぐことのできない者かもしれませんが、私の命は6千億円の価値があると言ってくださるのです。「わたしの目にあなたは値高く、尊い」(イザヤ43:4)と神様は言ってくださいます。しかしその命を人間は、アダムとエバの時以来、サタンに売り渡して、命への道ではなく、滅びへの道を歩いているのです。それこそが負債であり、神への罪です。その私の命を、イエス様がサタンから、命を懸けて買い戻してくださったのです。罪ある私への一方的な愛です。一方的な赦しです。ここに神の無限の赦し、無限の愛があります。神の国はこのような赦しの上に成り立っているのです。

 「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェソ432)と聖書は言います。キリストにあって、赦されていることを心に深く刻みたいです。そうすれば、主イエス・キリストの生きられたように、私たちも赦し合い、愛し合って生きられるようになるでしょう。

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