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  礼拝説教要約(20151115日)

「息絶えようとするとき」  聖書・ヨナ書2111

 子どものいじめということが、度々、ニュースになります。いじめられて自殺する子がいます。もちろん大部分の子はそれを乗り越えて成長するわけですが、いじめっ子を許し、更に愛するとなると、難しいことです。

 今日の主人公・ヨナの体験は「大魚に飲み込まれた」という常識では考えられない出来事です。しかし、「ヤロブアムがサマリアで王となり、41年間王位にあった。…イスラエルの神、主が、ガト・へフェル出身のその僕、預言者、アミッタイの子ヨナを通して告げられた言葉のとおり、彼はレボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した。」(列王記下1423,25)と、ヨナはヤロブアム2世(北イスラエル王国を最も栄えさせた王)の時代、預言活動をした実在の人物です。

 北イスラエルは、その北にある大国アッシリアにより、たびたび略奪、侵入され、常に脅かされておりました。アッシリアとイスラエルは、いじめっ子といじめられっ子の関係、いえそれ以上に厳しい敵対関係にありました。

 主はヨナに「さあ、大いなる都二ネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」(1:2)と、いじめっ子のアッシリアに対する預言をせよと言うのです。裁きと滅びを預言するのなら、ヨナは喜んで行ったでしょう。しかし、罪を指摘し、悔い改めを迫り、主の赦しと祝福を預言するために行けと言うのです。ヨナはそんな敵国の救いのためのご奉仕なんて、まっぴらごめんこうむりたいと、神に背を向けて、逃げ出してしまいました。いじめられたわだかまりを拭い切れていない、いじめられっ子の行動です。でも、大方の人は同じではないでしょうか。成熟した、神の愛を心に宿していないなら、このような働きは快くできません。ヨナも預言者として立てられてはいましたが、未だ、主の御心を充分に知っていない、駄々っ子でした。同じ状況なら、私もどうだろう?

 全てを創造された主なる神は、アブラハムを選び、イスラエルをご自分の使命を果たすものとなるようにと、守り導いてきました。でも、アッシリア(異邦人)はどうなってもかまわない、というのではないのです。この異邦人をも造り生み出された神なのです。選びの民・イスラエルだけでなく、異邦人をも愛し、惜しむ神なのです。

 使命から逃げ出したヨナに、主は試練を与えられます。主の御心をヨナが悟り、使命を果たす者へと整えられるためです。それが、ヨナが乗った舟が嵐に遭うことであり、海に放り込まれ、審きの魚に飲み込まれることでした。「ヨナは33晩魚の腹のなかにいた。ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげ」(:12)ました。ヨナは審きの魚の暗闇で祈り、悔い改めのときを持ちました。自分は神に背を向け、自分の考えだけで突っ走った罪人であることを自覚しました。だから「わたしは思った、あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。」(:5)と告白しているのです。裁かれ、神の前から追放された惨めさだけでなく、神と再び交わることのできない切なさ、悲しみを表明しています。

 しかし、「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった。」(:3)と、主なる神に祈る信仰は、ヨナの内に未だありました。そして「わが神、主よ。あなたは命を、滅びの穴から引き上げてくださった。息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。」(:78)と救いの確信を得たのです。罪のゆえに、絶望の中にある者をも愛し続けてくださる神を体験したのです。だからこそ、神が、罪のアッシリアも愛し、救いたいと思っていることをも理解できました。

 私たちも、どんな時でも悔い改め、主に心から祈るなら、主は受け入れ、救ってくださいます。それが、息絶えようとする間際であってもです。でも、今際に間に合うかどうかは誰にも分かりません。私が前に牧した教会の兄弟のご両親は、対照的な最期を遂げました。酒飲みで厄介者のお父様は、死の間際でイエス様を受け入れ、救いを得て天国へ行きました。しかし、しっかり者で真面目なお母様は、病状の急激な悪化の中で、間に合いませんでした。

だからこそ、年老いて死を間近にしてからではなく、ヨナのように若い時に主の愛を体験し、その後を、主の御心の中に生きたいものです。

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