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                  礼拝説教要約(201512月6日)「神にできないことは何一つない」 聖書・ルカ福音書12638

 「アヴェ・マリア」という歌を多くの人が作曲しています。アヴェ・マリアとは「おめでとう、マリア」という意味です。本日の聖書にある、天使ガブリエルがマリアに現れた時の冒頭の呼びかけから付けられています。歌詞の内容は本日の聖書箇所から「マリアの賛歌」に記されているものをまとめたもので、カトリック教会では主の祈りと共に最も多く唱えられる祈りです。

私が勤めていた学校の正面玄関の外側にもマリア像が立っていました。そこにシスターたちと信者であろう生徒たちがよく集って、この天使祝詞を祈っていたことを思い出します。それは「めでたし、聖寵満ち満てるマリア、主 御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、ご胎内の御子イエズスも祝されたもう。天主の御母聖マリア罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン」というものです。ここにはカトリック的な要素も現れております。マリアは神の子の母だから罪がないと考える無原罪のマリアという教義です。だから、神の前に執り成すことのできる人。それだからカトリックでは聖人に列せられた人やマリアを通して祈るのだそうです。でも、マリアも人間ですから罪があります。真の執り成してはイエス様だけです。私たちはイエス様が「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。」「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう。」ヨハネ1623~2414:13と言っておられるのだから、主イエス・キリストの名によって大胆に祈ってゆきましょう。

 しかし、マリアは確かに神に選ばれた素晴らしい女性です。ナザレは今でこそ、受胎告知教会の建っている観光の名所で、大きな町になっていますが、旧約聖書にはその名も記されていない真に辺鄙な寒村です。その片田舎の名もなき一少女マリアの清く素直な心を祝して、神は用い給うたのです。もちろん彼女が、救い主が生まれると預言されていたダビデ王の子孫であるヨセフの許婚であったからでもあります。

 マリアは「おめでとう、恵まれた方」(:28)と天使に呼びかけられ、何が起きたのだろうと戸惑い、恐れました。しかし、次に聞いた御告げはもっと納得の出来ないものでした。「あなたは身ごもって男の子を産む、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。」(:3132)というのです。マリアはただ「どうして、そんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(:34)と答える他はありませんでした。しかし、イスラエル人なら誰でもが知っていました。ダビデの末に救い主がおいでになること。そのお方が神の権能をもっておられるお方であり、自分たちを罪から救う(イエス)お方であることを。この天使の言っている意味はこのことと関係があるのだろうかと思いがひらめいたでしょう。その時「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(:35)と言われたのです。やはりそうなのだ!とマリアは思いました。でも理屈としては解っても、やはり現実としては、ましてそれが、自分の身に起こることを納得することはできなかったでしょう。それに対し天使は「あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6ヶ月になっている。」(:36)と、身近な現実の例を示し、不可能を可能にする神であることを示しました。「神にはできないことは何一つない。」(:37)と言われては、信仰深いマリアは、素直に受け入れざるを得ませんでした。

 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(:38)と、全てを主に委ねてマリアは応えました。救い主の母になることがどんなに大変なことか、また、人の目、特に婚約者の愛するヨセフに、どのように見られるか、不安は一杯だったでしょう。律法に照らして命を絶たれる危険を知りつつも、主を信頼し、全てを委ねたのです。主がなさることは間違いなく、最善なのだと。神が「良し」とされるのであれば、全ては神の御心のとおりに成って行くのだと。それが、「神にはできないことは何一つない」と信じる信仰の道です。マリアの応答はその最高のお手本です。

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