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                                      礼拝説教要約(20151227日)

「全き心で自ら進んで」   聖書・歴代誌上2919

 「彼らが全き心をもって自ら進んで主にささげたからである」の標語聖句をもって歩んだ2015年、その歩みはいかがだったでしょうか。共にこの1年を振り返ってみましょう。

 ダビデは主のために神殿を建てることを思い立ちました。しかし、その良い志を主によって止められました。本来なら気落ちし、「せっかく良いことをしようと思ったのに、もうやめた!」と、くさってしまう状況です。だが、ダビデはめいりませんでした。なぜでしょう? ダビデにとって神殿を建てるという行為が本質的な願いではなかったからです。「主に喜んでもらいたい」が根底にある願いだったからです。主の御心が、私が建てるのではなく、私の後に続く者が建てる。であるならば、私が主に喜んでもらえるのは何か?と祈り求めたのでしょう。そして示されたのが、次に続く者が成し遂げ易くするために、準備をしておくことでした。「わたしは、わたしの神の神殿のために力を尽くして準備してきた。(:2)」このダビデの心は周囲にも伝染し、「民は自ら進んでささげたことを喜んだ。」(:9)と、民も、主に喜んでささげたのです。自分が喜んで行なう時、主も喜んでくださるのです。

 何事でも、いやいや、しかたなく行なうなら、ストレスとなります。当座は人に知れなくとも、いつの日か、不満として表に現れてきます。これは主の喜ばれることではありません。次に、律法に従って、「しなさい」と言われるから行なうのであれば、見返りを求めてしまいがちです。人には誉められるかもしれませんが、主はその心をご存知です。でも、自ら喜んで行う行為は、見返りを求めず、反対や試練が有っても、積極的な思考でそれを乗り越え、主から喜んでもらえます。

 私たちも10年前(2005)4月に、この新会堂の定礎をし、クリスマスにはこの新会堂で礼拝できました。自分たちの思いに勝って、願い以上のものが完成しました。土地購入、売却のスタートから、主が共に働き、奇跡を見せてくださいました。会堂建築という大事業ですから、大変では有りましたが、皆が喜んで奉仕し、献げてくださいました。その後も、借財を返済するため献金と奉仕は続きました。それでも、皆さんが喜んでいたことを思い出します。もう召されましたが、冨本姉があの老齢で、絵葉書を袋詰めする奉仕を、どんなにしたら正確に早くできるかと、工夫しながらやっていたこと等を思い出します。その喜んでやっている姿が忘れられません。その結果は、前倒しで完済できたのでした。

 その節目の10年が今年でした。だからこそ、あの時の、ここに移ろうと思った、初心と情熱を思い起こしたかったのです。450人の会員で、2億円も掛かることを承知で、ここに移ろうと思いました。それは“更に多くの人に、教会に来ていただきたい。救いに与る人が多く起こされるように”ということでした。それこそが神の喜ばれることであり、主イエス様が天にお帰りになる時、弟子たちに託して行ったことだからです。

 昨年のクリスマスはJCからの受洗者があり、喜びをもってのスタートでした。年度始めのイースターにも、高校生になったばかりの信仰の継承者が受洗しました。でも、喜ばしいことばかりでは有りません。教会を去る者もおり、老齢で奉仕が出来ないと悩む人もおります。何かしたいと望んでいるから悩むのです。でも、毎週礼拝を守ること、愛する者のために執り成し祈ること、それは素晴らしい奉仕であり証しです。また、現役の役員さんが召天されました。召される4日前の祈祷会にも積極的に出席され、愛する者のため、特に家族の救いのためにも祈って行きたいと、証しされたばかりでした。この志、積極性を受け継いで行かねばならないと思わされています。彼はその良き見本を示してくれたのです。

 「全き心をもって」とは、偽りのない心、心底から行なったということです。そのような証し者を仲間に持っているということは、誇りであり喜びです。この証し、この喜びは伝染します。会堂か建ってもそれで教会造りは、完成では有りません。自ら進んでささげるこの喜びが、キリストの体である教会を、真の教会へと育ててゆくのです。

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