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       礼拝説教要約(201613日)

「神と人とに愛された」    聖書・ルカ福音書24152

 イエス様の父となり母となったヨセフとマリアは、裕福では有りませんが、律法に忠実な、穏やかなユダヤ人でした。「裕福でない」と言ったのは、イエス様を主に献げるとき、本来捧げるべき小羊ではなく、貧しい者に許されている鳩2羽(レビ記12:8)を捧げたと書いてある(2:24)からです。でも、滞在費が大変だったでしょうに、清め期間33日が終わるまで留まり、イエス様を主に献げたことや、本日の聖書箇所に「両親は過越し祭には毎年エルサレムへ旅をした」(:41)ことで、律法に忠実であったことが分かります。

 この年も、過越祭にエルサレムまで旅をして、神殿で礼拝を守り、帰路に着きました。イエス様がいないことに気付いたのは、一日路を過ぎてからでした。のん気な両親だな!と思われますか。この旅は今流に言うなら、村で親戚、知人とエルサレム詣でのツアーを組んで行ったといえるでしょう。

 昨日、今日と箱根駅伝が有ります。大手町読売新聞社前から出発し、芦ノ湖がゴールの往路で107,66km。今日はそれを戻る復路です。ナザレからエルサレムは直線で100㎞。道なりに行き、少し回り道もしなければなりませんからもう少し長い道になります。この箱根駅伝の距離と似通っています。それに子ども連れの団体ですから、4~5日の旅路です。芦ノ湖から小田原の中継点は23,22kmだそうで、地形的にも箱根から下るように、エルサレムから下り坂。丁度イエス様の両親の帰り路1日分と言えるでしょう。

 イエス様は12歳という節目の年でした。イスラエルでは13歳になると「律法の子」と呼ばれ、親の保護の下から離れ、自覚的に律法に従って歩む、自己責任の大人と見なされるのです。イエス様は子ども達の中で最年長で、誰よりも賢く、子ども達の世話役でもあったでしょう。だから両親は何の心配もしていなかったのです。

 「うちのイエスを見かけませんでしたか?」と尋ね尋ね引き返した両親が、イエス様を見出したのは、それから3日目でした。神殿で学者たちと律法について話を聞いたり質問しておられるイエス様。学者たちが飽きもせず3日もそれが続いていたということは、真に驚きであります。しかし、心配し探し続けてきた両親はいかばかりでしょう。マリアは「イエス!何していたの!」と、尋ねたと言うより、叱ったのではないでしょうか。私も末息子が子どもの時、数時間迷子になっただけで「マコ!どこにいていたの!」と大声を出したことがあります。でもイエス様は平然と、不思議なことを言われました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(:49)と。神殿を「自分の父の家」と言うことは、「わたしの父は神ですよ」と言っているのです。マリアは「何言っているの、お父さんはここにいるじゃない!」と苛立って叱ることはありませんでした。両親には意味が理解できませんでしたが「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」(:51)とあります。私たちも、自分に理解できない試練に出会った時、「今、解からなくても、後、解かる」と信じて、心に納めておく信仰深い忍耐が必要です。イエス様の誕生の時も、羊飼いたちの話を理解できず不思議に思いましたが、マリアは「心に納め、思い巡らしていました。」(2:19) ルカがこのようにイエス様の誕生、12歳のイエス様について書き残せたのは、マリアが心に納め、解き明かされたことを、ルカに話してくれたからでしょう。

 イエス様は、12歳にして「神を自分の父」と意識しておられたのです。それは、人として来られた意味、つまり使命をも知っておられたという事です。神と等しい清さを持った、罪のない自分が、人間の罪のために、身代わりの裁きを受けなければならない事。そしてそれが、十字架の上に死ぬことであるということをも知っておられたのです。イエス様は自分に与えられた、神の愛を証しし、罪人を救うという使命の道を、自覚して歩みとおされました。“あなたは何のために、この世に生を与えられていますか?”自分のため生きるだけの者は、真の幸福を得ることは出来ません。人は神に愛され、祝福されることによって、素晴らしい人生をたどることが出来るのです。また、その神から受けた愛を、他者との関係で生かせるとき、人にも愛される者となれるのです。

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