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礼拝説教要約(2016410日)

「素直な心 素直な信仰」   聖書・ヨハネ福音書5118

 近頃、ニュースで大いに話題となっている人がいます。“世界で最も貧しい大統領”と呼ばれている、ウルグアイの前大統領ホセ・ムヒカ氏です。大統領専用機を持たず、他国の大統領の専用機に客として乗せてもらったり、旅では一般客と同じくエコノミー席に乗る。大統領の給料の十分の1で生活し、後は、国民に還元する働きに用いる。彼は言います「貧しいのではなく質素なだけ」「一番大きな貧困は孤独です。物の問題ではありません」「他人のために何かできたら、自分も幸せ」これがムヒカ氏の幸福論です。彼が初めからこうだったのではなく、若いときはゲリラ戦士として力・拳銃に頼っていた。十数年の投獄生活の中で許されたのは本を読むことだけ。きっと聖書も熱心に読んだのではないでしょうか。「暴力で 世界を変えることはできない、文化を変えなくてはならない」と気付かされる。その生き様はイエス様に似ているなーと、ニュースを見ながら思いました。彼は心の大事さを語っています。今、日本に最も大事なことだと思います。

 今日の聖書箇所には病気を癒してもらった人がいます。しかしこの人は、それ以上に心が病んでいたのです。ベトザタ(神のあわれみの場所)と呼ばれる池の周りに「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など、大勢が横たわっていた。」(:3) 彼らはじっと池を見つめていました。水が動くとそこに居た人々が、次々と池に入りました。そして“癒された!”と喜んで出てゆく人もいるのです。しかしここに38年も病気で苦しんでいる人がいました。このベトザタの池に、床に乗せてもらって来て、何年になるのでしょうか。癒された時、寝床を担いで帰ったのですから50歳代とすると、10代から病気で、楽しい青少年時代、友と遊ぶことも、学ぶことも、仕事に汗する充実感も味わったことがないのです。時には、家に連れ帰ってもらったでしょう。でも、大部分はここで過ごしたのです。池の周りが回廊になっているので、夜もここで臥す人も多かったでしょう。彼もそのような一団の一人でした。彼は池の表面を見つめながら、池に入れる人を妬み羨んだ。「誰も私のことを心にかけてくれない。家族、親戚からも見放されている」と思い、あきらめ、失望しかなかった。心から出てくるのは恨み辛みだけだった。自分が生かされている。そのために、食事をもって来てくれる人、心にかけてくれる人がいることなどへ思いが行かなかった。感謝すべきことがあるのに、できない心になっていた。心も深く病んでいたのです。

 でもそのような彼に「良くなりたいか」(:6)と声を掛けてくれる人がいました。「ハイ、治りたいのです!」と素直に答えられないで、「水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」(:7)という、他者への不満、思いやりのなさへの非難、そして失望の言葉しか出てきませんでした。しかし、声を掛けてもらったことにより、彼の目は、池から離れ、救い主に向けられました。そこにこそ「羊の門」があったのです。イエス様は御自分を「わたしは羊の門である」(ヨハネ10:7)と言われました。それは素直になった心が入って行く「天国の門」です。この門を見出す人には希望が有ります。イエス様に目が向いた時、彼の心に変化が起こりました。もう一度、希望の光が入ってきたのです。

 このお方・イエス様が「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(:8)と言われた時、彼の心は素直に、この言葉を聞けました。そして行動に移そうと思ったのです。彼が決心し、一歩を踏み出した時、癒され、力が湧いてきました。彼は床を担いで歩き出しました。

 しかし、安息日に床を担いでいるのは、仕事をしているようにしか見えません。すぐにも「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」(:10)との非難を浴びました。でも彼は「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と、救い主への信頼を表明しました。“あなたがたが何と言おうと私は、私を病から救ってくださった方を信じます”との強い決意が伝わってきます。先週の、思い皮膚病から癒され、イエス様のもとに帰ってきた人のように、彼の心には、感謝がありました。そして神への賛美がありました。だからこそ、感謝の捧げ物を持って神殿に行ったのでしょう。彼が神殿に詣でたのは、38年ぶりのことだったでしょう。彼の心に神を礼拝する心が帰ってきたのです。これが大事なことです。病が癒されても、心が癒されないなら、そして心が神に向かわないなら、又、サタンの誘惑に負け、もとの罪の生活、滅びへの道が始まるのみです。イエス様は言われました「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」(:14) 彼がユダヤ人たちに「自分をいやしたのはイエスだ」(:15)と言ったのは、彼の「イエス様こそ、私の救い主です」との信仰告白です。素直な心が素直な信仰告白へと導くのです。

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