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礼拝説教要約(201651日)

「救いがこの家を訪れた」    聖書・ルカ福音書19110

 今年の標語聖句「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」が与えられ、主がその業を進めていることを感じます。昨年のイースターでクリスチャン3代目となる高校1年生が洗礼を受けました。そして今年のイースターでは、4月に結婚式を挙げて新しい家庭を築く姉妹が、洗礼を受け、クリスチャンホームとしてスタートしました。また、一緒に洗礼を受けられたご夫妻と、昨年度の受洗者4名皆が、「家族」という言葉に関係する人々と成りました。今年は更に、家族、親族のために祈り、証しして行きましょう。もちろん、今いる求道者を覚え、また、新来会者が増えるための種蒔きもしましょう。

私たちの教会の長期ビジョンに、“教会員子弟が信仰を受け継ぐ教会となる。”“生涯信仰生活を守り抜く”というのがあります。家族伝道にはこれが大事です。信仰を堅く持ち、信仰生涯を全うすること。途中で怠惰になったり、挫折すると、「あゝ、キリスト教信仰、真の神を信じていると言っても、あれ位のものか」と家族の人に思わせてしまうかもしれません。そうしたら、伝えることは困難になります。特別な大きな働きでなくて良い、でも、常に祈り、従い続けることが大事です。身をもって証しし続けましょう。

 このように思いながら聖書を読むと、家族に関係する聖句に良く気付きます。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」(:9)もそうです。「家を訪れた」これは、ザアカイ一人の救いではありません。家族全員の救いを意味するでしょう。パウロたちのフィリピでの伝道においても、紫布を商う婦人も「そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき。『私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください』」(使徒言行録16:15)と言ったとあります。標語聖句にあるとおり、獄屋の看守についても「看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。…自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。その後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。」(使徒言行録16:3234)とあります。

ザアカイは「徴税人の頭」でした。だから配下の徴税人たちにも大きな影響を与えたでしょう。でも彼は喜んで徴税人になったわけではなかったでしょう。小さい頃から特別背の低いこともあって、いじめられっ子だったのかもしれません。そのため、お金持ちになって、周りの人々を見返してやろうと思ったのでしょう。人一倍努力し、がんばって、金持ちに成り、徴税人の頭にまでなりました。しかし、人々の心をお金で買うことはできませんでした。益々、嫌われ、「罪人」と陰口をたたかれました。彼は、表面は平静を装いながらも、心では深く悩んでいたのです。だからこそ“イエス様がエリコに来られた”というニュースに、家を飛び出しました。町の通りは人が一杯で、背の低いザアカイは見ることができません。前に行きたくても、憎まれっ子のザアカイは前に行こうとしても阻まれました。ついに彼はイエス様を見るために、大人としては恥ずかしいであろう「いちじく桑の木に登った」のです。

しかし、ザアカイではなく、イエス様のほうがザアカイを見出したのです。その身だけでなく、彼の“このままではいたくない。変わりたい!”という彼の心を主は見られました。そして「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」(:5)と、名を呼んで話しかけられたのです。ザアカイはどんなに驚き、そして嬉しかったことでしょう。それだけではありません。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われたのです。その人の家の客となることは、最も親しい交わり、友となるということです。彼は今までの価値観、“お金が最も大事。お金さえあれば幸せになれる”と思っていた考えを変えました。“この私を当たり前の、一人の人として見てくれたイエス様の友として歩もう”と。それが「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します。」(:8)との表明です。

確かにイエス様が言われたとおり「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」(:9)です。「アブラハムの子」こう呼ばれることこそが、イスラエルの民なら誰でも持っている願望なのです。ルカ福音書1619節からに「金持ちとラザロ」の話があります。ラザロは「死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」(:2223)イスラエル人は、神を見ることはできないと分かっているから、信仰の父・アブラハムと共にいることが、神と共にいることだと。そしてそれこそが最大の幸福なのだと受け止めているのです。イエス様はザアカイのように、心から救いを求める人のために来られたのです。そして今も「救いがこの家を訪れた」と言いたいのです。

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