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礼拝説教要約(2016717日)

「キリストを生きる」       聖書・フィリピ1121

 アシュラムの朝の挨拶をしましょう。「イエスは甦られた」「イエスは実に甦られた」「イエスは主である」 第35回岡村アシュラムの主題が本日の「キリストを生きる」であります。

フィリピの信徒への手紙ほど信頼と愛情に満ちた美しい手紙はありません。他のパウロの手紙では、最初の挨拶において、自分は神によって使徒とされたと、紹介して書き出しています。しかし、フィリピの人々に対しては、自分を使徒として権威付ける必要がなかったのです。そんなことをしなくてもフィリピの人々は心から喜んで、パウロの言葉に耳を傾けてくれることを、パウロ自身確信していました。だからかえって、自分を「キリスト・イエスの僕」(:1)と表現しています。この言葉は自分を「奴隷」の立場に置いているとの自覚です。それは、イエス・キリストが命を懸けて自分を救ってくださった。その愛に対して、“自分はこのお方に命懸けで仕えて行く、自分のご主人はこのイエス様しかいない”との決意表明です。そして、自分の意志よりも、キリストの願望を生きようとの覚悟です。これは自由のない奴隷との卑下した表現ではありません。かえって、キリストの心を自分の心として生きるとの誇りであり、積極的な決意表明であります。

 それはまた、「キリスト・イエスの日」(:6102:16)と記してある、キリストが主の主、王の王として再臨なさる時、自分もまた、キリストに似た「清い者、とがめられるところのない者」(:10)へと変えられているとの確信と喜びから来るものです。「キリストの日」とは復活され、全権を持っておられるイエス様にお会いする日です。キリスト者が待ち望んでいる最高の日です。この「キリストの日」を待ち望む者は、死に対する恐れが消えます。それどころか、待ち遠しい気分になります。「マラナタ(主よ、来たりませ!)」とは初代教会の人々の挨拶言葉ですが、「イエス様がもうすぐ来るよね!」「そう、イエス様さはもうすぐ来るよ!」と励ましあいつつ、主の来臨を待ち望んでいるクリスチャンの、活き活きとした様が伝わって来るようです。

それ故、「わたしにとって、生きることはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(:21)と言いきれるのです。このように言える時、“自分は何のために生きるのか”との生きる目標、価値観が変わります。

 “あなたは何のために生きているのですか?”

今までは、この世の目に見える物質的豊かさ、自分の地位や名誉を求めていた。しかし、キリストを知った今は、キリストに似た者となりたい。キリストが生きたように愛の交わりに生きたい。自分がそれに、どんなに程遠いかを知っていても、主とお会いするその日には、全く主に似た者に変えられることを、主が約束してくださっているから、私たちはそれを望み見て歩めるのです。

パウロはこのように生きているが故に、今、ローマに於いて捕らわれ人として生活しています。しかし、それを恥とは思っていません。「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」(:20)と、キリストが人々に知られ、あがめられるよう生きることが、パウロの人生目標になりました。そしてクリスチャンの信仰は観念ではなく、具体的日常の生き様であるとパウロは言います。だからフィリピの信徒たちに「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」(:27)と勧めます。

そして2章からは、キリストの生き様を記し、このようなキリストに倣いなさいとパウロは言うのです。私たちは、イエス様と生活を共にし、イエス様のなさったことを見、イエス様から直接話を聞いた弟子たちが書いた、聖書からしかキリストを知りえません。だから毎日、聖書を読み、祈る必要があるのです。キリストを知り得た分ずつ、キリストのように生きることが可能となります。そのときイエス・キリストの霊も共にいて、私たちを助けてくださるでしょう。

アシュラムは、私たちが日常生活の中でキリストを生きるために、働きから離れて、主キリストの前に静まる時です。でも、この定まった時のみがアシュラムではなく、日々の生活の中にアシュラムの心を持って静まりましょう。

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