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礼拝説教要約(2016925日)

「信じる者になりなさい」   聖書・ヨハネ福音書2024~29

 2000年も昔、十字架に架けられて死んだイエス様を、何で、私の罪を消し去ってくださる救い主と信じられるのですかね。

 この問題を解決してくれたのが、本日のトマスです。トマスは後代の人によって「疑い深いトマス」と言われたりします。でも、死んで葬られた人が復活しましたと聞いて「ハイ、そうですか」と信じられないのは当たり前のことではないでしょうか。あなたの周囲の人々に「イエス様は人間の罪を全部引き受けて、神様の裁きとしての十字架で死なれた。でも、復活なさったのですよ。」と言って、素直に信じる人がどれだけいるでしょうか。もし「そんなことがあるものか!」と反論するようなら、その人には望みがあると言うべきでしょう。その人はトマスのように純粋な人でしょうから。でも大部分の人は、ただ押し黙って、暖簾に腕押し、柳に風のごとく、ただ受け流してしまうのではないでしょうか。これが私たちの周りの普通の状況です。

 トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11:16)と以前、言いました。これは、イエス様に絶対の信頼を置き、生死をも共にする覚悟を持っていた人だったということです。それ位、イエス様に全てを懸けていたのに、イエス様は死んでしまったのです。その上、昨日までは自分と同じように失望落胆、恐れの中にあった仲間が、一変して喜んでいる。そして「わたしたちは主を見た」(:25)と言っているのです。この仲間の急激な変化は、確かに何か特別なことがあったと察せられた。彼らが言うとおり、復活されたイエス様が来られたのかもしれない。でも何で、自分がいない時、イエス様は来られたのだ。自分にはお会いする資格が無いのか?私はイエス様にとって必要ない存在なのか?とふてくされ、心を頑なにしたとしても、もっともなことです。彼は意固地になり「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(:25)と言ってしまいました。

 それからの一週間、トマスにとっては、自分は除け者にされた。自分は仲間と見てもらえない、イエス様にとっても不必要な人間だったのか等、考える辛い日々だったことでしょう。しかし、次の日曜日、イエス様は又もや弟子たちの集まっている所に現れました。そして今度は一緒にいたトマスに言われたのです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」(:27)と。イエス様はトマスの言ったことを皆、聞いておられたのです。目には見えないけど、トマスと共に居り、御守っていてくださったのです。

 手の傷跡、わき腹の槍で突かれた傷跡にあなたの指を当てよ!と言われる。これは特別な哀れみです。本来、天国はその人の最も美しい、完全な姿が現れるところです。老年となり歯が欠け、腰が曲がり、髪が薄くなったまま、事故で手足がなくなったような不自由な状態でいなければならないなら、それは天国とは言えまません。でもイエス様はあえて、トマスのために、又弟子たちのために傷を負った、欠けある姿で現れました。見た全ての人に、十字架につけられたイエス様であることを確信させるためです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(:27) これがイエス様の願いです。

 私たちの救いは、「信じるか」「信じないか」この一つにかかっています。「わたしを見たから信じたのか。」(:29) そう、トマスのようにイエス様の復活を見た人の証言があるから。彼一人ではありません。12弟子たちも皆、見て確信したのです。「ケファに現れ、その後12人に現れたことです。次いで、500人以上もの兄弟たちに同時に現れました。」(Ⅰコリント15:5~6) このイエス様の復活を見た人々の証言があるから、私たちは復活のイエス様を見なくても、彼らのその後の生き様を見て、信じられるのです。

 「見ないのに信じる人は、幸いである。」(:29)とは、初代の弟子たちではなく、私たちのことです。何と嬉しいことでしょう。また、全ての罪が赦され、永遠の命が与えられているか否かは、地上にある間、誰にも分かりません。これはそう言われたイエス様のお言葉を信じる以外にないのです。でも、イエス様が復活されたことは、イエス様の言われたこと全てが真理であるという、確かな証拠です。あなたが救われ、霊の生命を与えられているのは、イエス様を「わたしの主、わたしの神よ」と告白したからです。

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