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礼拝説教要約(201718日)

「願い求めるなら」       聖書・ルカ福音書11113

 キリスト者にとって最も大事な祈りは何でしょうか。今日も共に祈った、主イエス様が教えてくださった「主の祈り」です。これは主語が「われわれ」となっていることからも解るように、共同体の祈りです。一緒に祈る祈りであります。それと共に、一緒にいる友の祝福を願いつつ祈る祈りでもあります。それゆえ、今日の聖書箇所は、主の祈りが実践へと繋がっています。

 友が夜になって急に泊まりに来た。この人は快く受け入れ泊めて、もてなすことにした。しかし、今の時代のように物資が豊かでないし、冷蔵庫もない。この人自身あまり豊かな人ではないが、気の良い、信頼されている人だったのでしょう。泊まらせることにはしたが、出してあげる食べ物がない。だから、真夜中にもかかわらず、別の金持ちの友のところに行って「友よ、パンを3つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」(:5~6)と食べ物を借りに行った。(控えめな日本人なら、こんな非常識なことはしない。先ず、他人に迷惑をかけてはならないという心が働くだろう。でも、助け合い、信頼し合う人間関係から見ればどちらが良いのだろう?)

でも、案の定「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」(:7)との返事が返ってきた。それでも、執拗に、熱心に求め続けたのは、自分のためではなく、友の為だったからでしょう。またこの友との間にも、信頼しあう良い関係が築かれていたからでしょう。

 でもこれは、“友の為なら非常識になりなさい”という教えではありません。“祈り”について教え、非常識と思えるくらいあつかましく、神に願い求めなさい。一回祈ったけど聞かれなかったからと、あきらめるのではなく、祈り求め続けなさいと教えています。祈り求めている間、私たちは神を意識し、神にそれだけ近づけるのです。これは神の喜ばれることです。又そのような厚かましい、執拗な祈りに、神は最善をもって応えてくれるという信仰があるからできるのです。

 人にとって最善のものとは何でしょう? 「このように、あなたがたは悪い者でありながら、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(:13)とあります。人間にとって最善のものとは「聖霊」だと主イエス様は教えます。「神の霊」人間が創造された時、吹き込まれた神の息。これこそが人間を人間としているものです。それが神と心を通わせ合うことの出来る聖霊を内に持つ人間です。だから人は永遠を思い、祈り(神との会話)を捧げるのです。神の霊が吹き込まれていない他の動物は永遠を思うこともないし、祈りをささげることもありません。私たちは人間です。

 パウロは、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)と言っています。神の愛を実感できるのも聖霊のなせる業です。私たちは神に愛され、神を愛していることを知っています。そのような神の愛を知っている私たちは又、隣人をも愛せる者でありたいです。そしてそれが実践へと向かわせる源です。しかし、それが出来ない自分であることに、私たちは気づかされました。実に悲しいことではありますが、それはまた、何と幸いなことでしょう。自分にそれがないことを知っているからこそ、それをもっておられる方、それを成し遂げられた方に求めるのです。私たちにイエス様は「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(:9)と言われます。でもこれは、既に申しましたように一回求めるだけではありません。「求め続け…、探し続け…、門をたたき続け」るのです。パウロはこうも言っています。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。…後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:12~14)

 私たちもイエス・キリストによって捕らえられ、神の愛を知った者ですから、この道をひたすらに走り続けましょう。主は約束してくださっています。「だれでも、求めるものは受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」と。このイエス様の約束は確かです。

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