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礼拝説教要約(2017115日)

「神に祝される祈り」      聖書・ルカ福音書18914

 今日の聖句を読んで、今回、先ず心に浮かんだのはマタイ福音書53節の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」でした。大部分の人は、心の貧しい人よりも、心豊かな人の方が幸いだと考えるでしょう。でもイエス様は心の貧しい人・自分は思いやりにおいても、行動においても欠け多い罪人だと考えられる人が幸いだ。そのような人こそ天国へ入れる人だと言われます。天の国に入る人は、神の目に義なる者とされている人だけです。でも「ユダヤ人もギリシャ人(異邦人)も皆、罪の下にあるのです。「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ3:23)とあるとおりです。自分の力で神の目に義なる者と見られる人はいないのです。だから、「義とされて家に帰ったのは、この人」(:14) 「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(:13)と祈った徴税人であったと記されています。ファリサイ派の人ではなかったのです。

 なぜこのようになるのでしょう。ファリサイ人こそ、世俗に埋没せず、この世から自分を聖別し、神の前に正しく生きようと心定めた人々だったはずです。律法を守って生活するためファリサイ人になったし、そのように生きていると自他共に認める人だったはずです。しかしそれが、いつしか傲慢となり、自慢する人々「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」(:9)の代表になっていました。それがファリサイ派の人々であるとイエス様は言われるのです。

 彼らが神に義とされなかった理由は何でしょう。第1に、彼らの目は神に向いていませんでした。周りの人々を見、「わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」(:11)と自分を他者と比較して誇っていたのです。

 聖書を読んだことがなかった頃の、かつての私がそうでした。意識してではありませんでしたが、他者と比べて、自分は未だましな人間だ、自分は正しいと思っていました。そして悪い事をする友達を心の中で見下して裁いていたのです。でも、聖書を読むようになり、自分の傲慢、罪を認識しました。そしてそれ以来、イエス様のような人になりたいと思うようになりました。つまり、比べる相手がイエス様になったのです。比べることなど畏れ多いことですが、イエス様を見れば見るほど自分の足りなさ、愛のなさを示されました。

 第2に、「わたしは週に2度断食し」(:12)ているとの自負です。イスラエル人にとっての断食とは、現代の健康療法のためではなく、食することを忘れ、神に心を向けて祈るためであります。イスラエルの民は年に1度だけ第7の月の10日の贖罪日には断食することを求められました。断食しない者は民の中から断たれるというくらい厳しい掟でした。(レビ記23:27~32) でもその後、年に4回の断食日が定められました。「万軍の主はこう言われる。4月の断食、5月の断食、7月の断食、10月の断食はユダの家が喜び祝う楽しい祝祭の時となる。」(ゼカリヤ8:19) そして、神に心を向ける断食を熱心にすることは神に喜ばれ、人々にも尊敬されるようになりました。するとファリサイ派の人々は更に熱心に、毎週2回、月曜日と木曜日に断食するようになったのです。

 第3に、「全収入の十分の一を献げています。」(:12)と誇っています。確かに律法に「あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない。…穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の十分の一と、牛、羊の初子を食べ(犠牲として捧げ、レビ人と共に)、常にあなたの神、主を畏れることを学ばねばならない。」「3年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割当のないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。」(申命記14:22~2328~29)と福祉のために捧げることを規定しています。しかしそれをしたからと誇り得ることではありません。イエス様は「もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。」(ルカ11:42)「正義の実行と神への愛」が大事だと言っています。

 だからこのファリサイ人の祈りは、祈りとは言えないのです。なぜなら、「祈りとは神との会話」だからです。しかしこの人の心は神に向いていません。高慢と自己満足を語っているに過ぎません。でもこれは現代の姿ではないでしょうか。次週から士師記に入りますが士師記の結論は「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(21:25)です。価値観が多様化し、個人の感性、いうなれば、自分の好き嫌いで物事を判断する時代です。この傾向は、士師記の時代よりも現代は、もっと強くなっているのではないでしょうか。世界を代表する国、アメリカの次期大統領もしかり、そして現代はますます、自分の国最優先のナショナリズムが進んでいます。これはとりもなおさず、自己優先、自己中心の神に向かわない罪の姿です。永遠に変わらない神の価値基準を知り、それを生きる時、世界の平和と幸いはあります。

ファリサイ人のように、他者と比べて自己義認するのでなく、神に向かい、神の啓示者イエス・キリストに比べるなら、誇れる人はいません。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と徴税人のように祈らざるを得ません。自分の罪を心の深みで知った時、同時に、キリストの慈愛、十字架の贖いの恵みが、心の中に光を放つのを体験できるでしょう。

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