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礼拝説教要約(2017212日)  

まことの神」         聖書・列王記上18115

 「神様とはどんなお方か」が、今日のメッセージの中心です。

 日本はかつて「神国」とし、天皇を神、神の子孫、現人神として敬ってまいりました。私は幸いそういう教育の下には育たなかったので、そのような捕らえ方は全くありません。でも、私どもの少し前の人々は、戦前、そのように教育され、戦後になって、天皇が人間宣言をし、大いに戸惑ったことでしょう。クリスチャン作家の三浦綾子さんは、戦前、学校の教師をしていました。戦後になり今まで正しいとして教えていたことが間違いだったとして、教科書を墨で塗りつぶさせたことの戸惑い、罪悪感を覚えたことを書いています。

 でも日本だけでなく、王国である国々の多くは、立国者を神、または神の子孫として絶対視させ、礼拝の対象としています。そのような国では王の像を作り、人々をその前に跪かせ拝ませるのであります。それは人の手で造った偶像を礼拝する風習となって行きます。

 しかし、私たちキリスト者は天地を創造された命の源なるお方を神として拝みます。このお方は霊なる存在であるばかりでなく、あまりにも大き過ぎる〔天はわたしの王座、地はわが足台(イザヤ66:1)〕がゆえに、人間は見ることが出来ません。見えないがゆえに、多くの人はまことの神の存在を否定しがちです。でも神は歴史の中でご自身の存在を人間に示されます。

 ノアに対しては「契約の神」(創世記6:18)として現れました。アブラハムに対しては、彼を全人類の祝福の源となるようにと導かれました(創世記12)。そして時が流れ、アブラハムの子孫が民族イスラエルとなるまで大きく成長した時、出エジプトを通して、律法を与え、神の国(本来あるべき、神が意図された祝福に満ちた世界)の、神と人との関係、あるべき姿をはっきりと示されました。これがモーセを通して神が与えた「律法」であります。律法は旧約聖書の中心です。

 しかし人間は神との契約、律法を守りきれません。人間の心の深みに入り込んだ罪は、神の言葉より、人間の知恵と力で、自分中心の世界を築いてしまいます。それは滅びに行く世界です。このことは現代まで続いているだけでなく、いっそうはっきりと、誰でもが滅びを意識しなければならない世界となっています。

 その誤りを気付かせ正すため、神は預言者をお遣わしに成りました。その預言者を代表する人物がエリヤであります。旧約聖書は律法と預言の書であり、それを代表するのがモーセとエリヤなのです。後に変貌の山と呼ばれるようになった高い山にイエス様が登られた時、イエス様は復活を予表する光り輝く姿に変貌しました。「イエスは…高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。みると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」(マタイ17:1~3)こともそれを証しています。

 エリヤが現れた時代は、北イスラエル王国が最も悪に染まり、国中に偶像が満ちたアハブ王の時代でした。エリヤはアハブ王に「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」(列王記上17:1)と言いました。エリヤの預言どおり3年もの干ばつのため、イスラエルは飢饉に陥りました。困り果てた王と民の前に姿を現したエリヤに対し、アハブ王は自分の罪を悔い改めるどころか、それを覆い隠すかのようにエリヤに「お前か、イスラエルを煩わす者よ」(:17)と言いました。エリヤは「わたしではなく、主の戒めを捨て、バアルに従っているあなたとあなたの父の家こそ、イスラエルを煩わしている。今イスラエルのすべての人々を、イゼベルの食卓に着く450人のバアルの預言者、400人のアシェラの預言者と共に、カルメル山に集め、わたしの前に出そろうように使いを送っていただきたい。」(:18~19)と言い、「まことの神」の真偽をかけて対決するのです。

 北イスラエル王国にもオバドヤのように、心から主を畏れ敬い、イゼベルが主の預言者を迫害し殺した時、主の預言者を秘かに救い出し、かくまった人もいました。でも、そのようなオバドヤさえ、表立ってエリヤに味方することはせず、アハブ王とイゼベル王妃を恐れていたのです。エリヤは言いました「わたしの仕える万軍の主は生きておられます。」(:15)と。このように主は生きていると信じきれるとき、恐れも、不安も消え去ります。私が最も苦しい試練のとき、私を支えてくれたのもこの聖句でした。苦しみに遭うことを恐れ、旗印を鮮明にせず、どっちつかずの保身をはかっている民の前で、エリヤは850人の偶像の預言者と戦います。偶像の預言者たちが朝から昼までバアルの神に祈り叫んでも、何の答えも兆候もありませんでした。しかし、エリヤが主の祭壇に捧げ物をし祈ると、直ちに火が降って、祈りは応えられたのです。「これを見たすべての民はひれ伏し、『主こそ神です』」と告白したのです。生けるまことの神は誉むべきかな!

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