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礼拝説教要約(201742日)

「真夜中の裁判」       聖書・ヨハネ福音書19116

 先週までの国会で最もニュースになったのが、森友学園瑞穂の国記念小学館の土地取得に関わる問題でした。9億数千万円の土地が8億円も値引かれて1億数千万円というあまりにも安い値段で国から払い下げられたこと。又、森友学園側が願っている通りに、通常ありえない早さと形で、全てのことがスムースに進んだこと。願っていた森友学園の籠池氏本人が「神風が吹いた」と言うほどでした。そしてニュースを聞いていて最も嫌だったのが、これらの事が決定されて行った話し合いの経過報告が、説明されないこと。その報告資料の提出を求められると、既に破棄されたということで提出されないことです。だからこそなお、誰でもが、どこかで権力が働き、不正がなされたと考えてしまいます。このようなあり方を「闇の中に葬り去る」と言います。そしてこのような行為は心の闇から起こることです。

 イエス様の裁判も、この闇の心から起こりました。それを象徴的に表わしているのが、真夜中に行なわれた裁判であります。

 過越の日の前日(正確に言えば、既に日が暮れていますから過越の日)、最後の晩餐をして出かけたゲッセマネの園で、祈っていた時、イエス様は捕らえられ、未だ実権を持っていたのであろうアンナス(大祭司カイアファの舅)のもとに連れて来られました。陰の実力者アンナスは、この世のことを思いのままに操ってきたのでしょう。森友学園問題でも話題となり、流行語大賞になるかもしれない「忖度」。ここでも下役は忖度したのでしょう。アンナスに命じられたわけではありませんが、下役はイエス様を叩きました。「そばにいた下役の一人が『大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか』と言って、イエスを平手で打った。」(ヨハネ1822)とあります。これらの出来事は全て真夜中に行なわれたことです。イエス様が「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。」(ヨハネ1820)と言っているのとは対照的です。ここに闇と光が対照されています。

 自分の手に負えないアンナスはカイヤファのもとにイエス様を送ります。何とそこには真夜中にもかかわらず、祭司長たちと律法学者たち、長老たちが集められていました。これはイスラエルの最高法院であります。どこの世界に夜中に開かれる、その国で最高の権威を持つ会議があるでしょうか。それも一人の人を殺すためにであります。「祭司長と最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。」(マタイ2659) まことに真夜中・暗闇の裁判であります。そして、「祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談したのです。」(マタイ271)  夜は明けましたが、心の暗闇は続いていることを示しています。

イエス様をこの場で殺すことはできましたが、それでは群衆によって慕われ、尊敬されているイエス様が、殉教者、真の預言者になってしまいます(実際にはそれ以上の大いなる者なのですが)。それでは大祭司を初め祭司長、最高法院が民衆から非難され、悪者になってしまいます。だから、イエス様をどうしても罪人として、公然と死刑にする必要がありました。正式な死刑判決を下せるのは、イスラエルの宗主国となっているローマ皇帝、その代理としてイスラエルに居るローマ総督ピラトのみです。「ユダヤ人たちは、『わたしたちには、人を死刑にする権限がありません』と言った。」(18:31) だから彼らは「イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。」のです。

総督ピラトは調べてもイエス様に罪を見出せませんでした。それでどのようにかしてイエス様を助けようとし、ユダヤ人たちに「わたしはあの男に何の罪も見出さない。…あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」(18:38)と問いました。更に、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられて血を流し、辱められて惨めな姿になったイエス様を「見よ、あの男を…わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」(:4)と言いますが、祭司長たちや下役たちは「十字架につけろ」と叫び続けます。ピラトは3たび「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」(:6)と言いました。しかし祭司長たちを先頭に、ユダヤ人たちは自分の心を闇に渡し「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません。」(:15)とまで言いました。ユダヤ人たちは、自分たちこそ神に選ばれた民、自分たちの国こそ全世界の覇者になるのだとの自負がありました。だから、今まではローマ皇帝であっても王とは認めていなかったのです。しかし、イエス様を公式に罪人として殺すために、彼らは自分の心を殺し、闇に渡したのです。

心が闇のままでは「イエスは主である」と告白することはできません。日本にもこの世の闇が覆っています。「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」(詩編119:139) だから私たちは、祈り、聖書のお言葉を、闇の覆うこの世の人に伝えたく思います。

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