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礼拝説教要約(20171224日)

「救い主の誕生」
        聖書・ルカ福音書2120

 クリスマスおめでとうございます。
  私にとって、横浜岡村教会で祝う最後のクリスマスになりました。そしてこのクリスマスにもイエス・キリストを救い主と信じ、洗礼を受けて、教会に加わる人がいることを嬉しく思います。それで、礼拝出席表を作り直すにあたって、一人ひとりを思い出しながら祈りました。すると、私がこの教会に赴任する前から教会員であった方々は、もう
14名しかおりませんでした。多くの人が主のおられる天に帰られました。それと、別に教会を設立して、分かれて行かれた方々もおられますし、他の教会へ転籍された方々もおられます。でも又、多くの方々が主を新たに信じ、加わってくださったこと嬉しく、感謝いたしました。

 なぜ、十字架の上に死んだイエス様を救い主として信じられるのでしょうか。それは、その出来事を見たまま、聞いたままを話し、伝えてくださった人々の生き様が真実だったからでありましょう。最初のイエス様の弟子たちは、無学なガリラヤの漁師だったり、他人に嫌われた収税人(この時代には罪人とレッテルを貼られていた)だったりでありました。特別な能力など持ってもいない人々でした。しかし彼らは、平安と慈愛に満ち、喜びと感謝に溢れて、主イエス・キリストを伝えていたのです。彼らが初めからそうだったわけではありません。彼らはイエス様に出会って変えられたのです。

 生まれたばかりのイエス様に最初に出会った、今日の聖書箇所に記されている羊飼いたちも、同じように変えられた人々でした。彼らは生き物の世話をしているため、毎週の安息日に礼拝をきちんと守ることができませんでした。

少し思い出話になりますが、私が青森の大三沢教会で奉仕していた時、お隣の野辺地教会の役員さんで畜産農家(酪農)がありました。役員さんと言いましたように、この及川兄は日曜日の礼拝を休むことがありませんでした。及川兄とそこの教会の横坂牧師は、先の戦争で捕虜となり、シベリアに抑留されていた時、知り合ったそうです。横坂牧師は自分が無事に日本に帰れたら、キリスト教の伝道者として働くのだと話された。及川兄もクリスチャンだったので、もし私も、無事に日本へ帰れたら、先生の所へいって、伝道のお手伝いをしますよと約束したそうです。幸い二人とも無事日本に帰る事ができました。横坂師は野辺地で開拓伝道を行ないました。そして及川兄も帰国している事を知り、「シベリアでの約束を覚えているでしょうか!」とお手紙を書いた。及川兄は既に、鉄工所の社長さんか何かになっていたが、お手紙をいただいた時、約束を果たそうと、会社をたたみ、野辺地に家族で移住され、やったこともない牧畜を始められた。そして教会の集会は欠かすことなく奉仕し、横坂牧師を助けて野辺地教会の大きな柱となられた。ということを聞きました。今の時代、日本の状況から言えば、家畜小屋で飼料を与えて飼育するような定着農を連想します。だから、毎週の礼拝もちゃんと守ることができました。

でも、2000年前の時代は放牧農で何日もどころか何週間も帰らず、遠くまで出かけることもありました。聖書でそのことが良くわかるのは創世記のヨセフの物語です。イスラエルと呼ばれたヤコブ一家はその頃ヘブロンに住んでいました。「イスラエルはヨセフに言った。『兄さんたちはシケムで羊を飼っているはずが。お前を彼らのところにやりたいのだが。』」ということで、ヨセフはシケムに向かった。ヨセフはシケムに着き、兄たちを捜したが見つからない。幸い人に出会い、羊の群れを飼っている兄たちの事を尋ねると「その人は答えた。『もうここをたってしまった。ドタンへ行こう、と言っていたのを聞いたが。』」(創世記37:12~17)ヘブロンはユダ部族の中心地でシケムまではベニヤミン部族とエフライム部族を通り過ぎ、マナセ族に接する地で距離的には直線でも75kmはある。ドタンはシケムから更に北へ30kmある。そのような遠方の地へ行って放牧するのだから、羊飼いたちが安息日の礼拝を公に守ることは艱難も多かったでしょう。

本来、イスラエルの民は半遊牧民で羊を飼っていたのですが、約束の地に定着し、祭儀中心の国になってからは、いつの間にか、このような羊飼いは蔑視されるようになっていました。しかし、主なる神は彼らを忘れることなく、救い主に出会う第1の訪問者としてくださったのです。御使いが「恐れるな。わたしは、民全体に与える大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(:10~11)と告げた。彼らもまた、救い主を待ち望んでいた人々であり、即座に、「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」(:15)と話し合い、出かけ、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。彼らは聞くだけの者でなく、行動へと移した。そうして御使いの言ったとおりの赤ちゃんを見つけた。この時のイエス様には、後世の画家たちが描いたような後光が射していたわけではありません。みすぼらしい家畜小屋の飼い葉桶に亜麻布で包まれた赤ちゃんを見出しただけです。しかし彼らは確信しました。そして変えられたのです。軽蔑されるが故に、人を避けていたような彼らが、「羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」(:17)とあるように、神をあがめ、讃美しながら、自分から人々のところへ出て行って話す人へと変えられたのです。

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